MONSTER


 18.言いたいことも言えないこんな世の中じゃ


 日が経つにつれ、避難民に逼迫する領土は押し並べて軍部の気配が色濃くなってきた。相変わらずの雨模様の往来を足早に行き来する軍靴の音、そこかしこで何事かを言い合う怒鳴り声が飛ぶ。
 王命により壁内全土に周知された大規模作戦行動とは、全人類の威信をかけた総力戦を決行するとの意だった。筆頭に立つのは実際に土地を奪われた旧マリア出身の人員すべてとされ、特に旧シガンシナ近郊より生き残った人民は大衆の模範となるべく先陣を切って出撃を期待するもの、とある。期待、と銘打ってはいるが、志願ではなく強制である。満十五歳以上の難民は本作戦に参加するべしとして、三軍団合同による徹底した徴兵が布かれることとなった。
 おおよその思惑通り、刻一刻と人員が集まってゆく。最終的には二十万を越すとされる難民は東西南北の区毎に割り振られ、急拵えの仮説住居で作戦決行の日を待つこととなった。脱走者や捨て鉢の末暴徒と化した難民の対応に追われる兵士が、市外のあちこちで胡乱な目を光らせている。目立って大きな事案はなかったが、小競り合いは日常のように盛んだ。降り止みを繰り返す霖雨と相俟って、重く泥濘んだ空気がひとひとと荒んだ肌を這ってゆく。
 実地での作戦行動を受け持つ調査兵団も例外なく雑事に追われていた。駐屯の助太刀もあるにはあるといえ、三軍団中圧倒的に小規模の団員数で二十万を越す人員を牽引するにはそれ相応の手筈を整えねばならない。加え、相手は先日まで畑を耕していた有象無象が殆どである。兵站や格闘訓練などは今更無意味だ。まず、やらねばならないこと。それは心構えだ。
 通常であれば訓練兵団のカリキュラムどおり、三年をかけて叩き込まれる課程であるが、俄か仕込みは至極単純且つ簡素となる。まず、戦地とは即ち死、というぼんやりとしたイメージをわかりやすく定着させる。これは既に巨人の脅威に直面したマリア難民には容易だ。繰り返し繰り返し説く事で、巨人とは即ち死、それを強く思い起こさせる。一対百でも千でも、万に一つも勝ち目のない相手だということは痛いほど身にしみている。ここを揺り起こしてやれば、後に残るのは圧倒的な生への渇望である。死にたくない、生きたい。この、ごく原始的な欲求は苛烈な分単純で扱いやすい。茜射す一筋の帰路のように、希望を与えてやればよいのだ。

「おぬしらは王命により選ばれし尊い戦士たちである! 見事、勝利を掴み、巨人どもに蹂躙されし我らの地を奪還せし暁には英雄となることが約束されている! 日没! 日没まで戦いぬけ! 生き抜き、耐え戦い、見事帰還してみせよ!」

 市外の主だった路地が集まる中央広場、円形に展開された中央にある建屋の上で、ドット・ピクシスによる決起集会が開催されていた。これは一度目ではない。日を時間を人を変え、繰り返し繰り返し重ねられている決起である。風の流れを計算しているのか、その声は如何な高所からとはいえ、人と思えぬ大音声である。
 彼の言葉どおり、今回の出兵は一度きり、帰還さえ果たせばその後の兵役は恩赦され、比較的肥沃な大地へ優先的に斡旋されるということが約束されている。王の名の元に下された英断として、各兵団はこぞってこれを煽った。効果のほどは概ね想定されていたとおり、徒党を組んで抵抗を試みていた輩を次々と炙り出すに至った。これに捕縛されたものはほぼ例外なく極刑である。審議の余暇も、老若男女の差もない。

「聞いた? 今回の作戦を拒否した人に対する措置」

 ハンジがやがて暮れゆく外の景色に目を遣りながら、誰に言うでもなく呟く。

「抵抗したり、身元を偽ったりして出兵回避の工作を行ったものは、例外なくおよそ五親等にまで及ぶ大罪だって。これを匿った者も同罪、逆に率先して告発するものには褒賞を与える、だってさ。むかーし、何かで読んだなぁ。"魔女狩り"ってやつだ」

 窓辺からの照り返しで、薄いフレームにはめ込まれた硝子が鈍く輝き、視線の行方をはぐらかしている。兵団舎内、出入りの制限もない適当な一室で、手の空いた者だけがおざなりに集まっていた。戸も開け放ち、見張りは誰もいない。日の翳った薄暗い廊下を足早に何人もが行き交うのが見える。満ちる湿気を少しでも逃がす為に開け放たれた窓からは以前声高な演説が垂れ流されている。室内には他、何人かがいるものの、誰も何も答えなかった。赤ん坊のむずがりを気にも留めないのとおなじように、淡々と持ち回りの報告を続けている最中だ。やがて、窓から視線を切り上げたハンジが捧げ持っていた紙束を目線より高く持ち上げた。ちょうど、誰かしらの口上がひと段落ついた頃合である。

「さて、私からの報告だ。兵団各位へ商会から続々と贈り物が届いてる。チラッとみて来たけど、主に銃火器類だったね。それもこんなにどうすんだってくらいの量さ。今まで何処に仕舞ってたんだろうねぇ」

 軽く言い切るなり、盛大に肩を落としながらあらぬほうへ腕を差し出した。捧げられた紙束を受け取るのは平素と変わらぬ兵団団長である。別の報告書などを見つつ、ゆっくりと肯いてみせる。

「対人兵器はいつの世も最大の抑止力だな。保管場所は聞いたのか?」
「それが一旦全部壁に上げて、作戦開始直後に壁外側へ下ろすみたい。そこからどうぞお好きにとってくださいね、みたいな」
「雑だな」

 備え付けの茶器を片手にリヴァイが呟く。視線は手ずから淹れた紅茶に注がれたままだ。ハンジが肯いた。

「先に渡すわけにも行かないし、難しいっちゃそうなんだけどね。一応私らにもくれるみたいだけど、どうする? 今後のために貰っとく?」
「玩具はいらねぇ。馬がいい」
「それもそうだな、かけあえるか?」

 エルヴィンが訊くのには、離れたところのモブリットが小さく首を縦に振った

「予算の面では今かなりどんぶり勘定です。ここで畳み掛けるのもありかと」
「では任せよう。小隊の編制は?」
「問題ねぇな。お望みどおりの急拵えだ」

 カチャン、とかすかな音を立てて、カップをソーサーに落ち着けたリヴァイが相手を見もせずに言う。僅かに残った飲み残しが波打つのを見下ろしながら、口付けた名残の縁を指で拭う。

「索敵班の奴らを分解してなるべく一人つけるようにした。班員は多くて五、最低三人だ。連携が何処まで取れるかはやってみなきゃわからんが、生き残るだけならそう難しくはないだろ」
「そうか」
「お前のお守りはミケだ。俺は補給の連中の近くにつく。文句あるか」
「いや、ない」

 短く応えて、エルヴィンが肯いた。名指しされたミケ・ザカリアスは何をいうでもなし、窓際にひっそりと佇んだまま、先程までハンジが眺めていた窓の外に目を遣っている。それを見もせず、エルヴィンが顎を引き、備え付けの机の上にゆっくりと両手を置いた。そこには、ローゼ壁外から以南、かつて市街地だった地区の詳細な見取り図が広がっている。現在の最南端に位置するトロスト区を始め、そこから左右に点在する関所を兼ねた門も記してあり、壁に当たるところには壁上固定砲の位置も書き込まれている。トン、と擦り切れた分厚い人差し指が南門を叩いた、そのまま滑り上がり、トロスト区の形状をなぞる。

「開門した後に民兵が散開するとして、そこまでは牽引しなければならない。壁上固定砲が前夜から壁周りの巨人を掃討するにしても、当然取りこぼしはいるだろう」
「まあ、走り抜けたらいいわけじゃないもんねぇ」
「少人数に分けた班はまずここから。取りこぼしの掃討を負え、粗方の人員が門からで切ったその後に陣を敷く」

 抑揚の乏しい声が言うにつれ、半月の薄い爪先が紙面を掻きながらまた滑らかに動く。簡易に既にない街と地区の名称が書き込まれた辺りでぐるりと円を描いた。

「陣もこの二極で展開する。市街地を抜け馬で移動するもの、市街地に留まるものと二分し、リヴァイ、お前と補給班は市街地近郊にて待機だ。私はちょうど境界辺りで東西各集団の到着を待つ。合流次第、その時点での掃討指示を出す。以南側が最激戦地区だろう。血の臭いに誘われて、巨人の出現率も増える。そこまで民兵を連れてくること」

 トン、と爪先が一度跳ねた先は、特に書き込みのない空欄の箇所だ。一年前とはいえ、領土内だったその場所の当時を思い描くのは兵士であれば容易い。居並ぶ全員の脳裏に、兵団団長が指し示した地区が立体の映像として浮かび上がる。市街地から外れ、流れる大河の支流を越えたそこは穏やかな勾配が漠然と続く、肥沃な農村地帯だった。点在する森の他は開墾された二毛作用の農地と素朴な家々が立ち並ぶ。土はよく肥え、作物の収穫率も高く、食料供給地として重要な拠点だった。その様子が、早送りのようにごく最近の様相へと変化してゆく。つい先日通りかかったときには、畑は荒れ、家々は朽ちるに任せ、野生化した家畜が物寂しげに枯れ草を食んでいた。物陰には巨人が潜み、かつての豊かな地はもはや血みどろの死戦場としか表現できない。上書きされてゆく風景に暫し全員が口ごもる。やがて、ミケが外を見たまま口を開いた。

「死体の回収はどうする」

 兵団員のことではない。エルヴィンが長身の影へ目を向けた。

「民兵の回収は行わない。なるべく市街地での戦闘を避けるのはその為だ」
「土塊に朽ちてくれたほうが病気は少ない」
「そうだ」

 エルヴィンの返答を聞いて一つ頷いたきり、ミケは再び沈黙する。それを確認してから、兵団団長は再び居並ぶ全員を見渡した。

「全員への詳細伝達は改めて場を設ける。他、何か確認したいことはないか?」
「あー、いっこ、気になってるんだけど」

 ガリガリと乱暴に頭を掻きつつ胸の前で適当な挙手をし、ハンジが言う。

「例のあの人たち、彼らは結局どうなるのかな?」

 あの、という辺りで、指先があらぬ方向を向く。エルヴィンが薄く頷いた。

「作戦参加は決定した。ただ、あの老人だけは意見が割れている。あまり健康状態が芳しくなく、もう長くはないらしい。無闇に暴れて作戦遂行の障害になるくらいなら免除もやむなし、という側と、十把一絡げに平等性を図りたい思惑とが落としどころを練っている。とはいえ、それくらいだ」
「…え、子供がいるでしょ? あの子は?」

 たしか、。そう口にしたハンジを見た後、エルヴィンの視線が滑る。ややあって、止まった先は今の今まで無言を貫きつつ、俯きがちに控えているルカだった。ひときわ壁際の、ほぼ扉付近で佇む彼に無言の促しがなされるなり、薄い唇は意外にも滑らかに動いた。

「現時点で得られた少女の証言より、駐屯が保管している戸籍へ照会を行いました。欠損は多いものの、巨岩付近にあった廃村の住民と見ておそらく間違いないようです」
「あの、手前にあった風車の村?」
「はい。地方豪農の遠縁者が起こりというぐらいで、特に目立った家名もいない、貧農ばかりのようでした」

 回想を語りだすルカの脳裏に、山羊を飼っていたの、という、小鳥のような少女の声が響く。短い髪を持て余しながら、彼女はこちらも見もせずにいった。ひとつ、喉を鳴らしながら。

「わたしと、父さんと母さん。じきに兄弟が生まれる予定で、四人家族。他のうちも大体同じ。…あ、でも、同い年の子はあんまりいなかったな」

 何度か邂逅を重ねたある日だった。ちょうど、空模様も落ち着いた午睡に尋ねると、部屋の中には彼女が一人、ぼんやりと佇んでいるだけだった。他の面々はちょうど入浴やら何やらで出払っている最中で、ほんの束の間、一人になったのだという。粗末な木綿の寝巻き姿で窓辺に置いた椅子に腰掛け、はこちらが何かを言う前に、唐突に語り始めた。にび色の曇り空と、閉じた硝子戸越しの光が少女らしい肌を照らし、細い首筋にうっすらと動脈が見える。時折瞬く瞼も眼球の淡青を透かして写す。隈が残る目縁には濃く睫の影が降りていた。

「あの時も、いつもどおり。わたしは家畜の様子を見てて、父さんは畑に出てた、母さんは、多分家の中。最後に見たときに靴下を編んでたから。最初、知らない声が聞こえたの」

 それは、初めて聞く大人の絶叫だった。そう、少女は述懐する。

「巨人が来た、壁が崩れた、南の方から順に危ない、ここも危険だから早く逃げろ、…多分、そんなことを言ってたんだと思う。あんまりよく覚えてないけど。よくわからなくて、立ったままだった私の手を父さんが曳いた時」

 村一番立派な風車に、文字通り手が掛かるのが見えたのだという。




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