MONSTER


 17.安い言葉が好き


 壁内と壁外。物寂しい荒涼たる町並みと巨人の脅威以外、そこに大差はない。濁った曇天へ俄かに慌しくなってゆく軍靴の音が反響する。特に、調査兵団が使用する建屋はそこかしこでひずみが激しく、床へ打ちつける踵の音同士がやけに耳につく有様だ。火打石のよう、と取りとめのないことを考えながら、ペトラ・ラルは前を行く小柄な背中に遅れぬよう必死だ。刈り上げたうなじに載る墨のような黒髪が動くたび、りり、と揺れている。風を切る肩とはこのことか。恵まれた筋力を駆使した四肢捌きで、並み居る同僚の顔を引きつらせ、道を譲らせている。

「人数はどうだ」

 前後なく唐突に投げかけられる。このどう、という部分には多岐にわたる含みがある。このあたりの機微を繊細に嗅ぎ取れるのが、彼女のひそかな喜びであったりする。吊り上る唇を懸命に引き締めなおし、ぐっと顎を引く。

「出揃い始めています。とはいえ、基本的にみんな立候補なんかしませんから、各班長の推薦ばかりです。三人から四人構成で、今のところ八班」
「少ねぇな」
「やっぱり分裂を嫌がりますね。いいやしませんが、分けるにしても分隊クラスの規模は保ちたい、というところが本音でしょう。少人数での作戦遂行にいまだ疑義もありますし、ましてや急拵えの班長となると不安が大きいみたいで…」
「ケツの穴の小せぇ連中だ。小指の先ほどもねぇんじゃねぇか」
「あはは…、」

 苦笑いを返した後、相手はお決まりの鋭い音で話を打ち切った。依然として猛然と闊歩しながらも、その実物憂げな思考に耽っているのがわかる。顔は見えないが、わかる。きっちりと着込まれた団服から匂い立つような気配だ。

「壁外調査じゃあるまいし、有象無象をあちこちに放り出すために数を割けばいいってもんじゃねえ。規模がでかけりゃその分だ。奴め、何を考えてやがる…」
「エルヴィン団長?」
「じゃなきゃなんだ?」
「いえ、というか、」

 歯切れの悪いこちらを察してか、チラ、と肩越しにほんの僅か視線が寄越される。歩む速度は緩めない辺りが彼らしい。投擲にされるようなその目つきに思わず目を泳がせかけるが、そのまま唇を湿らせる。

「その、今回の件には団長の意思も何もないんじゃぁ…、こないだの召集会議の仔細は又聞きした程度ですが、作戦立案は王命でもって憲兵団が齎したんですよね? でしたら、如何な団長といえど、中央権威に差し出口は不可能なんじゃないかな、って」

 しばし、刺さっていた眼光がふいと前に戻った。行く手に階段が現れ、廊下とほぼ変わりない速度でそれを降ってゆく。返答はないながらこちらの言葉を待つ気配を頼りに、ペトラは再び口を開く。

「市井もそうですよね。普段見かけない彼らが最近は我が物顔でのさばってます、この壁際をですよ? 自分たちの優位性をひけらかすよい機会ですもん。役割を越えた差し出口も然るべきではないですか? 団長は泥を飲まれたんだと思います、あえて」
「…そうだといいがな」

 厭に歯切れの悪い言い方に、今度こそペトラの目が泳ぐ。だが、どうやらそれで話は打ち切られたようだ。失望したわけでも、意に沿わぬ意見が気に食わないわけでもない。割れ欠けが目立つが、丁寧に掃き清められた階段の途中、換気のために開け放された窓の外を見遣り、ここまで淀みなく動いていた足が止まった。仕切りの縁に握り拳を預け、じ、と下を見下ろしている。ペトラの位置からは、相変わらず真に迫った横顔と、ここのところ割れ目を見せないどんよりとした曇り空しか見えない。今日の空は雨こそ落とさないものの、灰に薄く水烟の靄が掛かる、けぶった湿っぽい風情だ。陽光は弱く、風もひんやりと冷たい。兵長、と声をかけるとほぼ同じく、外から僅かに歓声が忍び入ってきた。落ちかかる暗い窓辺から反響するそれは、澄んだ少女の声だ。澱んだ大気を切り裂く小鳥のような声。
 そ、とリヴァイの傍らから覗き込む。見下ろすこちらの位置は中二階のため、階下までさほどの距離はない。まず目に飛び込んできたのは、曇天の光すら集めて散らす、鈍い鋳金の髪だった。緩い風に嬲られるまま、ルカが佇んでいる。団服を着込んではいるものの手持ち無沙汰なのか、何をやるでもなし、投げ出した腕もそのままの棒立ちだ。目線の先には誰が整えたのか、申し訳程度に整えられた花壇と、しゃがみ込む少女がいる。丁寧とはいえない手入れの果てにとりあえず咲いた、という風情の花とルカを交互に見、時折何事かを言い、小さく笑う。取り立てて快闊な笑みではないのに、他を差し置いて耳朶を打つ響きだ。
 ふと、ルカの頭が動いた。こちらの視線に気づいたのか、そのまま振り仰ぎ、目が合う。無言のまま目礼する彼を不思議そうに見上げ、少女もまたこちらに気づいたようだ。生えかけの短い髪の下、零れ落ちそうなほど瞳が開かれる。あまり見慣れない漆黒だ。不思議な色、とペトラが思う間に、彼女はぱっと立ち上がり、膝を払うのもそこそこにルカの陰に隠れる。

「何してる」

 そこまで待っての問いだった。端的なリヴァイの声も良く通る。ルカは無表情のまま一つ瞬きをして、背後の少女――を見下ろしてから、再びこちらを仰ぎ見てきた。

「散歩です。気分転換に」
「わざわざ? 付き合ってンのか」
「はい」
「クソ暇な奴だな」
「そうでもないのですが」
「じゃあ切り上げろ」
「はい」

 流れるようなやり取りに、思わずといったようにがルカを見上げる。その顔を無感動に見つめ返し、小さな声で何事かを囁いたようだ。ひょこ、とルカの背から顔を出した少女が、今度こそしっかりとこちらを見上げてきた。
 帰還した当初は短く刈られていた髪も地肌が見えない程度には生えそろい、最初の頃の貧相さはない。だが、粗末な寝巻きを纏った体は相変わらず枯れ木に勝るとも劣らない有様だ。元から小柄な分を差し引いても危なげなその様子に、自然ペトラの眉尻が下がった。それを知ってか知らずか、は矢庭微笑むなり、小さく腰を折る。

「こんにちは」

 どうやらリヴァイに向けての挨拶らしい。当の本人は完全に沈黙している。めげない少女は胸に手を当てながら一歩を踏み出し、一心にこちらを見上げてきた。

「あの、わたし、お礼が言いたかったんです。助けてくれてありがとうって。あと、毛布も。あの、ほんとに、本当にありがとうございました」
「そう思うなら部屋に戻れ。病気のガキがこんな所うろつくな」

 吐き捨てるかのような取り付く島もない物言いに少女らしい目が見開かれる。しかし、ペトラが慌てて取り成そうとする間に、少女は再び頭を下げた。

「はい、そうします。うろうろしてごめんなさい」

 こう言われてしまえば、流石の兵長様も閉口したようだ。それ以上言い募るでもなし、ただ視線はそのままでじ、と小さな頭を見下ろしている。大の大人ですら怯む彼の舌鋒にめげた様子も無い少女は、そのまま小さく挨拶をし、遠慮がちにルカの袖を引いた。いつの間に打ち解けたのか、彼は特に邪険にする素振りも、かといって気安くする素振りもなく、一つ簡素な肯きを返し、こちらを見上げてくる。教科書どおりのような敬礼をするなり、の背を押してきびすを返した。
 束の間、沈黙があった。やがてふう、とペトラが息を吐く。

「ルカ・ティラン…でしたっけ、ネス班長の秘蔵っ子の」
「無愛想な奴だ」

 それはあなたに言われたくないでしょう、との台詞は飲み込んで、ペトラはいまだ去りゆく影を見つめるリヴァイの横顔に目を向けた。

「病気の子が心配なんでしょうか? なんだかとっつきにくそうな人だと思ってましたけど、根は割と優しいんですね」
「どうだかな。何の気なしに動く奴じゃなさそうだ」
「? というと?」

 チラ、と初めてリヴァイから視線が返る。それは一瞬で、彼は再び窓の外へ目を遣った。子供の萎えた足を気遣ってか、二人の歩みは殊更遅い。

「あの妙な奴らの様子を見てろと言ったらああしてやがる。つまり、そういうことだろ」
「ぇええ? まさかぁ! 子供ですよ?」
「馬鹿野郎、連中の中じゃあのガキしかまともに口利ける奴がいねぇだろ。殺されちゃかなわんってこった」
「あ、なるほど…」

 死亡した十数人に対し、言外に他殺を確信している物言いにペトラが顎を引く。リヴァイは拳を預ける窓枠にそのまま寄りかかり、薄暗い戸外に視線を投げたままだ。ゴロロ、と遠雷が響く。また一雨来るのかもしれない。

「あの不潔野郎を締め上げてもよかったが、生憎俺もそんなに暇じゃない。病人に無理強いするほど冷血でもないしな」
「はあ」
「あのガキが洗いざらい吐けば一番手っ取り早い」
「まぁ、そりゃあ、…でも、」

 あんな小さな女の子に、それを強いることに意味はあるのだろうか。その口から語られることはきっと、おぞましくろくでもないことだ――そう、思いはしつつ、口ごもりながら、ペトラの視線は再びリヴァイに倣う。まるで昼下がりとは思えない色彩の乏しい景色の中、もう随分と離れた位置にいる大小の背に、相変わらず冷えた風が吹きかかっている。ルカの着込む団服も風に煽られ、徽章の羽根が伸び縮みを繰り返している。言いかけたこちらの言葉を求めるでもなし、ふと、リヴァイが無言のまま凭れさせていた身体を持ち上げた。掌同士を派手に打ちつけ、見えない埃を飛ばしながら窓に背を向ける。先ほどと変わらぬ歩みを再開した彼が一つ鼻を鳴らした。

「恐らくあいつはお前が思うようなことを躊躇する性分じゃない。だが、現実ああして酔狂な飯事に興じてやがる。何の狙いがあるんだか…、まあ、好きにやらせるさ。必要かどうかももう俺にはわからん」
「…兵長の言ってることがいちばん謎なんですけど」
「そうか、じゃ気にするな」
「そういうわけにはいきませんよ! つまり、どういうことですか?」
「面倒事は後から聞いたほうが得だぞ」
「後手に回るのは性に合いません」
「奇遇だな、俺もだ」

 ぼそぼそとしたやり取りはひそやかに、薄暗い階下へ消えてゆく。




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