MONSTER


 9.なんちゃって


 帰路は、穏やかとは言いがたかった。今回の往路が穏やか過ぎたのもある。しかし、復路は常と比べても過酷な行軍だった。肥大する雨雲に追いつかれそうな空、濃灰の雲で濁る陽光は汚い黄身色をしている。荒野からは水気に曳かれた埃が立ち上り始める。優秀と呼ぶに相違ない班員を何人か失いながら陣形は猛然と進み、やがて、長い旅路の果てに巨大な壁が姿を現す。先頭が煙弾を打ち上げた。壁上で物見に当たっていた駐屯兵団兵士がすぐさま伝令を出し、調査兵団の帰還を方々に伝えてゆく。陣形は旧市街地に差し掛かる前に一度散開し、菱形から一本矢の形に切り替わる。ここが最後の難所だ。膿んだ曇天に翳る寂れた物悲しい町並みは建物が障壁になり、いつ何処から巨人が飛び出してくるとも知れない。先頭を索敵班兵士で固め、ある程度の巨人を削ぎ、中ほどに団長、荷馬車、殿をリヴァイが務める。他は市街地に入る前に馬を併走させ、立体機動に移った。霍乱と掃討である。兵団帰還の際は、再びここで何人かが死に追いやられる。

「じき援護班が来る! それまで耐えろ、死ぬ気で走りぬけ!」

 誰かの声が木霊する。わかりきった台詞に返事は返らない。飛ぶのは血飛沫と蒸気、その中を文字通り矢のように班員が掠め飛んでゆく。割れた石畳の上を転がるように荷馬車が進む。その車輪も、もはや何処まで持つか危うい。小石を磨り潰し、泥を跳ね、金切りの悲鳴を上げながら回転する。その物音が気を引くのだろう、二メートルほどの巨人が三体、身軽さを生かして飛び込んできた。厭な音を立てて荷馬車の屋根がへこむ。あわや、というところを目にも止まらぬ刃が振るわれ、続けざまに二体、どう、と地に落ちる。ルカだ。残る一体は追いついたハンジが仕留める。

「いやはや、ホントに優秀だ!」

 返り血を身軽に交わし、高い建屋の屋根を蹴ったハンジが嬉しげに叫ぶ。ルカはいまだ馬を捨てていない。騎乗したまま荷馬車に併走し巨人二体を斬って捨てたのだ。舌を巻くその所業に空を舞う面々が瞠目する。

「前を、」

 端的なルカの叫び声がその人差し指とともに放たれる。兵士らしい指先が指す先にはようやっと駆けつけた援護班が門前に群がる巨人を掃討する光景が広がっている。粗方は片付けられたらしい。このまま一気に駆け抜け、壁内へ滑り込む。

「取りこぼしだぁあああ!」

 断末魔が上がった。全員が振り返る先に、肩ごと腕を食いちぎられた班員が必死の形相で彼方を指している。彼はそのまま石畳に落ち、ついで現れた巨人に踏まれて消えた。七、八メートルを越す巨体だ。そのくせ早い。あっという間に列へ迫り、拳を振り上げたたき付ける。辛くも逃れた班員の代わりに馬が数頭潰れた。鮮血が色の少ない辺りを鮮やかに染め抜いてゆく。
 巨体はそのまま、固定された笑顔を振りまいて拳を我武者羅に振り回した。傍にあった家屋が成すすべなく倒壊し、道幅を狭めてゆく。すかさず攻勢に転じた班員をあざ笑うかのように、巨体は笑いながら今度は四つん這いで身を推し進めた。その先は荷馬車、そして兵団団長がいる。ルカが馬を御し、荷馬車後方につける。迎撃する気か、アンカーの射出口を構えた。しかし彼が飛び上がる前に、奇妙な笑顔は後ろからの猛烈な一撃により消し炭と化した。リヴァイだ。射抜くような瞳が一閃、ルカを見る。

「お前こそ前を見ろ。お前の仕事はその薄汚ねぇ連中を運ぶことだ」

 言い捨て、彼は返す刃で他班員が苦戦する乱戦場へ戻ってゆく。ペトラが続き、ついで二、三と巨人を霧に変えてゆく。荷馬車はどうにか瓦礫を越えた。そのまま口端から泡を吹く馬の尻を血が滲むまで叩き続け、兵団は一列になりながら壁内へ駆け込んでゆく。走り抜けた。四肢が砕けたようにして馬が倒れ込む。門を閉めろ! と忽ちに怒号が上がる。

「さっさと閉門しろ!ぐずぐずするな!!」

 墜落するようにして、トロスト区の門は落ちた。もうもうと土埃が舞う。帰還後の門前はいつにも増してざわめきに包まれていた。調査兵団の帰還は毎度の事ながらやかましく、凄絶である。息も絶え絶えに駆け込んでくることなどざらではあるが、今回はそれを上回る衝撃が物見の人々に迸った。滑り込むようにして駆け込んできた荷馬車は横転間際、片側の車輪が割れ、もはや使い物にならない。加え、先ほど取り付いた巨人の指か歯が掛かったか、目張りの布も飛び、屋根も落ちた悲惨な有様だった。中には、すし詰めの人員が折り重なって蹲っている。やはり、声すらない。なんだあれは、死体か、ヒトか? と小さなざわめきが波紋のように広がってゆく。
 やがて、巨人の掃討を追えた兵団員が壁を伝い、次々と壁内に戻ってきた。負傷したもの、息の切れるものと様々だが、顔色は悪くない。各班班長が声を張り上げ、乱れた隊列を素早く整えてゆく。同時に、使い物にならなくなった荷馬車へ隊員が駆け寄り、蹲る人々を路上へ引きずり出す。皆、一様に薄汚れ、窶れ、骨が皮膚を押し上げる手足で歩くのもやっとという呈だ。促されるまま、よろよろと石畳に踊りで、そのまま、数歩も歩かぬうちに膝を突く。行進は無理だと判断したのか、班員の誰かが家屋から荷押し車をいくつか借り受けてくる。足腰の使い物にならぬ重度のものを優先的に乗り上げさせ、そのまま、適当な縄で馬に括り付ける。概ね隊列が整い、兵団は帰還につきものである兵舎までの行進を始めた。
 凱旋とは聞こえがいいが、いつもこの瞬間は矢面に立つようなものだった。調査兵団帰還を聞きつけた団員の家族が次から次へと詰め寄せてくる。そこに目当ての顔があれば安堵して泣き、なければないで怨嗟の涙が流れる。どちらにせよ、隊列は嗚咽と畏怖を込めた目線に晒され、進んでゆく。
 だが今回ばかりは毛色が違った。その原因は言わずもがな、いつもはないはずの人々の姿である。明らかに奇異な身なりの人間が、粗末な荷車に担ぎ上げられ進んでゆく姿は、多分に人々の視線を釘付けにした。やがて、誰かが漏らしたのだろう、調査兵団が民間人を救出して帰還した、という声が漣のように広がってゆく。それは最初緩やかに、そして瞬く間に津波のような歓声になった。人々は拳を突き上げ、辛くも帰還した兵士たちを歓待する。それでこそ英雄だ、よくやった、と口々に賞賛が交わされる。疲弊した兵士たちは活気付く往来をいつもどおりの無表情のまま進んだ。雨飛礫の散り始めた路地がそこだけ色を変えてゆく。






 調査兵団帰還の報は早馬で各拠点の元へ届けられた。内容はこのほかに、大まかな調査結果とともに、班員の損耗率、築いた兵站拠点の数や位置などに及ぶ。口伝の報告など大雑把過ぎていつもは聞き流すのだが、この時ばかりは違った。最後に付け加えられた奇妙な一報に、南方司令、ドット・ピクシスは睨みつけていた爪切りから顔を上げる。足の親指の爪を切りきってから、今のところ、と口に出す。

「最後のところじゃ、もういっぺん言うてみよ」
「ですから、」

 指令補佐を務める女性兵士が苛々を隠さずに唇を舐めた。

「調査兵団はシガンシナ区近郊で民間人と思われる集団を保護、無事に壁内へ連れ帰ることに成功しました。人々の衰弱は心身ともに激しく、今は軍医の手当てを受けています。意識混濁のものが多く、話しを聞ける状態ではないそうで、」
「ほう!ほうほうほう!」

 爪切りを放り出し、ぞんざいに投げ棄てていた靴下を掴んでピクシスが立ち上がった。乱雑に履き直し、草臥れがちのブーツに足を通す。

「それは面白い! 面白いぞ! マリア陥落からもうじき一年、そんなところで生きのびておったじゃと!? それは本当に人間か?」
「司令、お言葉が過ぎます」
「おお、すまん、ついうっかりな。だが気になるな。よし、見に行くぞ!」
「なりません」

 一刀両断。いそいそとブーツの紐を結ぶ司令の指が、がく、とぶれる。

「彼らの身柄は現在調査兵団が預かっております。司令が今仰ったとおり、その集団が人間かそうでないかも含め、いずれ正確な報告が寄越されるでしょう。それまで不明瞭な輩に近付くことは相成りません」

 淡々と言い募る補佐に対し、壮年のピクシスが少女のように唇を尖らせる。

「相変わらず手厳しいのう」
「ありがとうございます」
「褒めておらんわい。おぬしには乙女らしい好奇心などはないのか?」
「ございます。しかしそれは今発揮されるべきものではないかと」
「巨人の謎に近付きたくはないか?」
「…司令、いい加減になさってください」

 怒気をはらんだ低い声が地を這うようにして迫りくる。どうやらここまでらしいと悟ったピクシスはブーツの紐を途中で投げ出し、背もたれの高い椅子に深々と座りなおした、つまらん、と溜息交じりに宙を見る。

「あの変人がここまで連れ帰る輩じゃ。何かあったと見て相違ないだろうに、わしはそれを見ることさえも適わんのか」
「エルヴィン団長にはそれ相応の御考えが御ありでしょう。何度も申し上げますが、正式な報告を待つべきです」
「そんな悠長なことを言っておったら、あの男が全部片付けてしまうわい」
「それは重畳」

 補佐が満足げに頷いた。ピクシスが鼻を鳴らし、身を起こす。そのまま立ち上がった。俄かに構える彼女に阿呆、と舌を出し、そのまま窓際まで進んでゆく。片足は軍靴、もう片方は靴下のまま、毛足の短い赤い絨毯が敷かれた司令室内を頓着なく横切る。窓枠は縦に細長く、高い天井までを一枚の玻璃が分厚く覆っている。外は生憎の雨だ。眼下には手早く店じまいをする店主、通りを忙しなく走り抜けてゆく人々が右往左往し、やがて、通りからめぼしい人影が絶えてゆく。外側からの冷気にじわじわと硝子が曇ってゆく。雨は吹くような驟雨ではなく、落ちるだけの静かなものである。コツ、と節くれ立った関節が窓枠を叩く。

「ああ、老いとはなんと儚き炎かな。仕方ないのう、当分は報告で我慢、か。他に聞いたことはないか? 」
「大まかには以上です。あとは、救出された人民の中に、子供が一人混じっているとか」
「ほう、女か?」
「さあ、そこまでは」

 妙な質問だ、と小首を傾げる補佐に、振り向いた司令はにやり、と唇を引き上げて笑った。

「いや、女じゃろう。古今東西、最後に生き残るのは女と決まっておるからな」
「はぁ」
「縦しんばその子が巨人ならば、ぜひとも絶世の美女になってわしを食い殺して欲しいもんじゃな」
「そうですね」

 会話はそこで終わった。





<<<    >>>