しんと冷えた空気に、饐えた悪臭が混じる。筆舌に尽くしがたい異質な空間に、その声は今日の空と同じ、低く垂れる曇天のようだ。
「…ヒトか?」
上だ。すかさずハンジが灯りを持つ腕を上げる。岩壁は高くなるにつれ内に狭まり、ささくれた窪みを作っている。段差のように出来上がった複雑な凹凸の先、ひときわ大きな出っ張りの淵に、爛々と輝く二対の瞳がある。顔は陰になり見えない。ただ、声音と言い屈めた体躯といい、まず間違いなく男である。は虫類のように不気味に伏せた体制のまま、目だけがこちらを見下ろしている。
「人間…?」
ハンジが思わずという風に声を漏らした。途端、それまで呼吸さえ憚られていた奥の壁がどよめいた。
老いも若いも、男も女も入り混じる。悲鳴から始まり、うめき声にかわり、それは徐々に大きくなってゆく。
「兵長! 大丈夫ですか!?」
入り口からペトラの声が割って入った。岩の外まで悲鳴が漏れているのだろう。逆光で見え辛いが、補佐の二人が今にも乗り込もうとしているのが伺える。
「いい。お前らは入ってくるな。それよりもっと灯りを寄越せ。大量にな」
振り返らずに告げるリヴァイにペトラは歯噛みしたようだが、ハンジが片手を上げて頷くと二人はしぶしぶと引き下がる。
岩の入る前と後で、既に用意した焼材は使い切っていた。入り口を追加した人員で固めつつ、新たな分を取りに行ったのだろう、俄かに外が騒がしい。しかし、岩の中はそれに勝る絶叫の大合唱である。いい加減に三人の鼓膜が痛くなった頃、リヴァイが今度はルカに拾い上げた松明を押し付けた。
意図を察した彼が無言のまま腕を掲げる。長身の彼がその特長を生かせば、途端先程は届かなかった所にまで灯が及んだ。窪みの影になり、全容が判明しなかった人物の様子、壁際に追いやられた人々。煌々と燃える灯りが精一杯と照らす中、おぼろげながらにも両者は浮かび上がってゆく。
三人の目が最初に捕らえたのは上。唯一理解できる単語を発した声の元だ。
「…オイお前、降りて来い」
低いリヴァイの声には、返事も行動も返らなかった。
突起に伏せ、こちらを見下ろす人物は、その声音の通りに壮年の男だった。三十前後ほどの陰影の濃い顔つきがじ、とこちらを伺っている。ほうぼうに伸びた髪が垂れ、筋となり、やつれて骨ばった顔を幾つも通り過ぎていた。ぼろを纏った身体は痩せ細ってはいるが長身らしく、狭い岩場の上で窮屈そうに手足を降り曲げている。最初、妙な体制に見えたのはその所為らしい。
両者が睨み合うこと暫し、先に動いたのは男のほうだった。伏せていた上半身を慎重に起こし、そろそろと壁の方に身を寄せる。ただし、視線はこちらに向いたままだ。
「お前ら、人間か?」
「それ以外に見えるか?」
端的なリヴァイの台詞に男はわずかに顔をしかめてみせる。そのまま、にらみ合うようにして暫し、ふと、男が視線を切り上げ顔を巡らせる。ぎらぎらと得体の知れない目が見つめる先には、いまだ怯え、団子になり、断続的な悲鳴をあげ続ける人々がある。薄明りの中、その表情は一様に恐怖に染まり、下がりようのない壁際で更に後退せんともがいていた。男と変わりない、伸びた頭髪に薄汚れた身体、殆ど男女の区別もない。見開いた目だけが生きている証のように光り、色のない唇で意味の成さない声を上げ続けている。
いずれ落ち着くかと静観を決めていた三人だったが、壁際の恐慌は一向に収束の気配を見せない。やがて、仕方なくといった風にハンジが口を開く。と同時に、変化が現れた。蹲る人の内一人が唸りながらも突如立ち上がったかと思うと、いきなりこちら目掛けて猛然と突進しはじめた。
「うわぁぁぁあああああああああっ!」
耳を劈く雄叫びをあげながら、幽鬼のような男が拳を振り上げ迫る。しかし、標的をリヴァイと定めたのがそもそもの失敗だった。ハンジやルカが止める間もあればこそ、次の瞬間に凶行者は顎先へ強烈な蹴りを喰らい倒れ伏す。抜き身のまま捧げていた剣を使わないところが彼なりの配慮らしいが、下ろした足はそのまま相手の顔を踏みつけている。ハンジが溜息がちに肩を竦めた。
「あーあー、ちょっとは手加減しなよぉ」
「してるだろ。生きてるじゃねぇか」
「それは手加減じゃなくて当然…ってちょっと、まだやる気!?」
ぎょっとしたハンジが語気を荒めたのはリヴァイに対してではない。壁際の人間が未だ呻きながらも次々に立ち上がり、こちらへ向かう構えを見せた所為だ。その顔は皆いっそうの恐怖に引きつり、目を見開きながら歯を食い縛っている。悲壮な顔である。自身ですら御しきれない感情に支配され、もはや言葉は意味を成さないだろう。そう三名に思わせるには十分な表情だった。
群衆の混乱は一挙には御しがたい。言葉は交わさないまま、三名ともが経験則に基づく判断にて、対話による制圧か、終止の無言による鎮圧を目論んでいた。だが正当防衛とは聞こえのいい先程のリヴァイの一撃で最早どちらも難しい。一度気絶させるしかないか、と全員が覚悟を決めかけたとき、またしても頭上から声がかかる。
「どうやらマジで人間みたいだな。ひでぇことしやがる」
くつ、と皮肉げな、笑い混じりの声だ。男は再び兵士三名へ視線を戻し、得体の知れない顔つきでじっくりと見下ろしていた。細められた目にわずかな警戒と敵意、そして、おびえが見える。緊張に包まれた長身がそれを振り払うようにかすかに身じろぎする。
「オイ、降りて来いと言ってるんだ。いつまで見下ろしてやがる」
にべもないリヴァイの言葉に、男は特に反応を返さなかった。変わらぬ表情のまま唇を閉ざし、こちらを見つめるに終わる。すかさずハンジが口を開く。
「あの! 訊いてもいいかな? アナタはどうしてそんなところにいるの? っていうかそもそも此処は何? いつから此処にいるのかな? お名前は? あ、降りるのが難しいなら降ろしてあげましょうか?」
「…アンタがたはどこのドナタだよ」
口を挟む隙のないハンジの質問には返さず、男が訊いた。めげないハンジが笑顔で続ける。
「私はハンジ・ゾエ。こっちの二人はそれぞれリヴァイにルカ。私達はみんな調査兵団の者でね。今はちょうど壁外調査中なんだけど、巨人が群がる奇妙な岩があるっていうから見に来たんです」
「…調査兵団、」
「そうですよ。え、知りません? まさか、そんなことないですよね!」
男は再び黙り込んだ。ハンジと言葉を交わす間にも、視線は三人のうち、特定の誰かを見ているようではない。何かを考え込むようなそぶりに見えもするが、薄暗がりの中ではそこまで判別できなかった。
やがて、入り口から再度ペトラとモブリットの呼び声が響き、応じるリヴァイによって更に灯りが追加されるに至る。次々と投げ入れられる松明のおかげで、洞内は十分な明かりが募る。天上はさすがに暗闇に覆われたままだが、頭上の男や壁際の人々、更には堂内の様子までつぶさに観察できるようになる。
さすがにあの巨岩なだけあって、内部の空洞もそれなりの広さである。明るさに慣れてきたのか、壁際の面々の怯えも徐々に収束を見せているようだ。無意味な叫喚も収まり、今は戸惑いと怯えを色濃く残す妙な声を上げながらも、ちらちらとこちらを伺っている。その視線はたまに泳ぎ、頭上へと到る。男は相変わらず黙り込んだまま、何処ともいえない眼下を見つめていた。光明は男の容貌を明確に照らすが、やはりその表情は何を考えているのか一切読めない。男が伏せる窪みや突起なども含め、壁面は一面に暗色の苔が生えている。先程の雨の所為か、水分を蓄えた葉先が明かりを享けてぬらりと光る。爬虫類の腹を思わせるそれを眺めやりながら、リヴァイが改めて口を開いた。
「ひとまず全員外に出ろ。詳しい話はそれからだ」
言葉は通じるのだろう。リヴァイの言に対し、壁面の面々は明らかな戸惑いを見せた。先程の恐慌とは違うざわめきが湧き上がる。その間に彼は視線を返し、再度頭上の男を睨み上げた。
「そこの不潔野郎。二言はないぞ。十数える間に降りて来い」
虚ろなまま、男の眼球がぐり、と動いた。ぎょろぎょろとさまよったあげくに、やがて眼光鋭く見上げるリヴァイへたどり着く。
「出来なきゃ力ずくだ。その薄汚ぇなりごと蹴り落としてやる」
「………」
「あと五」
淡々とカウントを取りながら、リヴァイは踵を鳴らし壁側へ向かってゆく。彼の人となりは仮令相手が誰であろうとも、やるといったことはやる。つまりもう間も無く、明らかに憔悴しきっている男はそれなりの高さから蹴り落とされる事態になる。一足飛びで突起へ向かうつもりか、リヴァイがアンカーを射出する構えを見せた。さてどうなることやら、と傍観していたハンジが、せめて手加減はするようにと口を開きかけたとき。まさにそのときだった。
「ごめんなさい、やめてください」
それはたった一滴、水面に滴が垂れたかの如く、唐突に岩の中へ落ちてきた。鳴り響いていたざわめきが唐突に止む。途端、あたりは息をするのもはばかられるような静寂がおりた。落ちた滴は小さく、しかしよく通る、いたいけな声だった。固まる三人の前、口を噤んだ人々の後ろ、光の届かない虚のようなところで、小さな影が身を起こした。膝を擦り、立ち上がる。
「ごめんなさい、やめてください、ごめんなさい、お願いします」
ぽつり、ぽつり、と謝罪を繰り返し、人々の背から姿を現したのは、落ちた声音に寸分違わぬ小柄な身体だった。ほかの面々と変わらない薄汚れた体にぼろ切れを纏い、やせ衰えた手足には乾いた皮膚が張り付き、小さな骨が内側からくっきりと押し上げている。伸びきった髪を顔にまとわりつかせながら、ぎゅ、と手近にいた大人の背を握りしめる。
「子供……?」
呟いたのは、ルカだった。目を見開いたハンジがその言葉で瞬きを再会する。そのまま動いた唇から言葉が続く前に、おい、と頭上から声が降りる。
「今降りるから、ちょっと灯りを退けてやくれねぇか。まぶしくてたまんねぇんだよ」
男が縁に膝を突きながら鷹揚に言った。しばらく沈黙が降りたが、リヴァイが鋭く舌を打ち、ルカに向かって顎をしゃくる。心得た彼が落ちた松明を何本か拾い上げ、男から遠い壁際にぞんざいに投げ捨てた。灯りは消えないながらもずいぶんと小さくまとまり、再び洞内には落日のような暗さが戻ってくる。よし、と頭上の男が呟いて、ぎょろりと動いた視線が再び壁際をみる。途端、あの子供が慌てたようによたよたと駆けてくる。そのまま、男が難儀そうに凹凸づたいに降りてくるそばまで駆け寄り、華奢な身に過ぎた大の大人を必死に支えようと腹の辺りに手を駆ける。ゆっくりゆっくり、二人は降りてきた。薄暗さと薄汚さが相俟って、それは一つの黒い塊のようだ。地に足を着けるなり、男がぞんざいに子供を振り払った。軽い仕草だったが、子供はたたらを踏み切れずに膝から落ちる。
「ちょっと、」
ハンジが思わず非難めいた声を上げるが、それと同時に男も膝から崩れ落ちた。振り払った腕の遠心力に引きずられたらしい。
「ごめんなさい」
再び、幼い声が謝罪を口にする。投げ出された身体を起こしながら、男と同じ色のない目が静かに口を噤んで佇む兵士三人を見遣る。怖くて、と声が続いた。
「大きな音がして、今までも怖かったけど、それまで聞いた事もない音だったから。巨人が入ってきたらどうしようって。そうしたら、あそこが割れて、火が入ってきて。もうだめだって。皆さんが、誰か分からないし、まぶしくて、すごく怖かったんです。本当に、ごめんなさい」
端的で茫洋とした声だが、やはりよく通る声だ。周りが先ほどとは正反対に水を打ったように静まり返っている所為もあり、それは洞内にゆっくりと反響する。ごくり、と誰かの喉が鳴った。それを合図に、ハンジが気安く片手を降った。
「いいよいいよ、そりゃ怖いよね! 大人だって怖いんだから、君みたいな小さな子だと尚更だよね。こっちこそごめんねぇ、このおじさんは特に気が短いんだ。気にしなくて良いからね!」
このおじさん、とリヴァイを指さしたあたりで、当の本人は鋭く舌を打つ。子供はこくん、と頷き、そのまま、うずくまったままの男の側ににじり寄った。たてた片膝にぞんざいに腕を起き、俯いたままの男の肩をそっと揺り動かす。痩せた身体を持て余しながら、男が顔を上げた。その目には先程まで感じ得なかった確かな理性が宿っている。まずリヴァイを見、今の今まで無言を貫くルカを見遣ってから、やがて視線はハンジに落ち着いた。
「お望み通り、降りてきたやったぞ。で、外に巨人はいないんだろうな」
「ええ、今はいませんよ。さっきみんなで退治しましたからね。でもいつまでもぐずぐずしてちゃ、新しいやつらが来ちゃうかも知れません」
視線を合わせるためか、ハンジが膝を折った。汚泥や垢に塗れた男の顔を覗き込む。
「どうでしょう? あなた方が一体全体なんだってこんなところにいるかとか、そういう複雑なことはさておいてですね、ひとまず素直にみんなまとめてここからでてくれませんかね?」
この言に、男はなぜか傍らの子供を見た。視線が合っているのかいないのか、子供は身じろぎすらせずに、沈黙している。しばらくそれを眺めてから、男は薄く微笑んだ。
「もちろんさ」