MONSTER


 2.光に虫が集まるみたい


 後続班への引継ぎも滞りなく終わり、ハンジ率いる総勢八名の分隊は目出度く巨岩へ向けて進攻を始めた。現地への先導はルカが務め、残り三名の索敵班兵士はそのまま兵団団長への伝達を行うこととなった。中央指揮隊の指示を仰ぐ前での独断ではあるが、予め陣形を散開した時点で有事における進退の決定権は各班員に委ねられている。今回齎された情報は有事というには緊急性がなく、かといえ瑣末というには奇妙な事象だ。いうなれば、このようなことこそ独断を避けるべきではある。しかし、時として好奇心は戦時の判断理論ですら凌駕する。ハンジ・ソエはそれを体現した人物だ。付き従う旗下の面々も何だかんだで似たり寄ったりである。
 出発直前までは、不用意に奇行種へ近付く危険を切々と唱えていたモブリットも、分隊長の決定が覆らないと知るやあっさり態度を翻した。今や馬上でありながらも、他の班員と少ない情報であれやこれやと推論を交わしている。

「要するに、カブトムシみたいなもんじゃないですかね! その大岩から樹液みたいなものが染み出してて、それが実は巨人の好物っていう!」
「じゃあ、巨人が壁内を目指していたのもそれが理由ってこと?」
「それなら人間を食う理由がないだろ!」
「いや、岩の代わりに我々を襲っていたというのも考えられるぞ!」
「巨人に消化器官はないのに? なら俺ら人類はまるで嗜好品の代替だな! 馬鹿にしやがって…!」

 速さを優先する所為か、自然に声を張り上げての問答になる。夢中になりすぎて怒鳴りあうような彼らの一つ先を行くハンジが苦笑しながら振り返った。

「まあまあ、みんな落ち着こう。それを確かめる為に向かってるんだからさ、いま心配しても早合点だって」

 暢気なハンジの台詞に、右後方についていた女性兵士が眉を顰めて口を開く。

「しかし分隊長、なんにせよその大岩とやらを調べるには、まず群がる巨人どもを掃討しなければなりませんよ」
「それなんだよねぇー」

 うむむ、と作られた唸り声を上げ、速度を落とぬまま器用に首を捻る。

「確か、ルカ君達が確認できた範囲で七体だったっけ?」
「はい。大体が三、四メートル級の小物ばかりでしたが、一体だけ十五メートル級を確認しました。見えた限りではそれが一番大物でしょう」
「十五! またえらいのが居るね。全部が奇行種と推定して、少なくとも同時に七体か。周りが林って条件でもちょっと厳しいかなぁ」
「立体機動が使えない事はないでしょうが、林といえど巨大樹の森ほど高さのある木々ではありません。討伐を行うのであれば、平野戦と同じ条件下での戦闘になりうる可能性があります」

 息も切らさず、すらすらと淀みなく答えるルカの言葉はしかし固い。未明から降り続けていた雨の所為で、未だ地表のそこかしこが泥濘んでいる。加え、目的地までを一息に目指すため街道を外れ荒れた未開拓の地を進んでいる。泥を跳ね、水溜りを飛び越し進む馬脚は荒いが、先頭をゆく彼は速さにおいて集団より頭一つ抜きん出ていた。初列を預かる索敵班兵士は巨人の動向へ気を配るだけでなく、集団が滞りなく進むためにその討伐をも進んで引き受ける、所謂精鋭揃いの班だ。乱れない呼吸を見る限り、これでも速度を抑えているのかもしれない。湿り気を帯びた金の髪が向かい風に靡き、曇り空の下鋳金のように鈍く光る。
 その彼を以ってしても、いやだからこそ慎重にならざるを得ないのか、ルカの返答は暗に無闇に交戦すべきではないと示している。そこを無理に推し進めるのであれば、現実は想像以上に酸鼻を極める有様かもしれない。
 こりゃ参ったな、と上下する振動にめげず、ハンジは乱暴に頭を掻いた。後頭部で縛った髪が乱れ、あちこちに飛び出している。

「集落から先に調べようと思ったけど、そう悠長なことも言ってらんなさそうだね」
「巨人に気づかれる前にある程度は確認したいところですが…」
「増援を待つべきでしょうか? あの三名もそろそろ団長に追いついている頃です。恐らく何班かは駆けつけてくれると思いますが」

 左右から述べられる言に考え込んだのも束の間、ハンジは両手で手綱を握りなおしつつ首を振った。

「いや、探索だけならこの人数のほうが好都合だ。今までの傾向からして、奇行種はより人間が多いところを察知しやすいからね。集落は後回しにまずその岩を確認しよう。縦しんば向こうに気づかれたら速やかに撤退、戦闘は避けたほうが無難そうだ」
「同感です。それに…」

 深く頷いたルカの片手が手綱を放した。彼はそのまま腕を伸ばし、前方に姿を現した影を指す。

「見えてきました。あれがそうです」

 荒くれた兵士らしい指の先、烟る灰色の視界の中、古紙に染み入るインクのようにじんわりと黒い影が現れる。ぼやけた輪郭は馬が駆けるほど鮮明になり、鋭角となる。
 一行が往く荒地とは別に、粗雑ながらも続く街道が見える。うねりながら荒れた石畳が続く先、まず小さな家々があった。このあたりの一般的な集落となんら変わりない、素朴な人々が日々を暮らすに事足りるだけの、質素なすみかである。だが一目で廃墟と分かる。硝子の割れた窓に崩れた屋根、枯れた蔦が壁面を這う。人の気配が絶えて久しいその村の後ろを覆うように、暗く深い影が落ちている。

「林に入る前に一旦速度を落とせ! 後ろ四人は散開して周囲を警戒!」

 ハンジが叫ぶ。即座に応えた四名が隊を離れ四方に散った。旧村落はあっという間に途切れ、視界には迫るように巨木の林道が犇く。杉か樫か、背の高い直立の木々が密集し一行の行く手に待ち構えていた。ルカ達の進言どおり巨大樹の森ほどではないにしろ、枝打ちをしないままの通直の幹は地に光を届かせない。とりあえずの道は作られているようだが、曲がりくねる造りと乱立する木々の所為で視界の先は見通せない。ひんやりとした空気だが、湿気が強い。雨後の土埃の臭いではなく、黴と苔が蔓延る場所独特の生臭さが肺に満ちる。
 極力足音を殺しながら進むも、完全に速度を失うわけには行かない。巨人に聴力があるかは甚だ疑問だが、リスクを減らすにはやむをえない行為だ。先導するルカは既に抜剣しており、目的地が近いことを悟る。だが同じく柄に手をかけながらも、ハンジは土くれた道に目を落としていた。そこには、人のそれより何倍も大きな足跡がある。

「…確かに整備された道だね。材木の運搬用にしては小さい気がするけど」
「妙ですね、この道幅では荷台同士のすれ違いは難しいでしょう。あと視界も悪すぎます。この蛇行もわざとでしょうね」
「用途が分からないな…」

 主副が小声で交わす間に、ルカの馬が止まった。左腕を水平にして停止を促し、ついで馬ごと半歩横にずれる。半数になった分隊一行の前に、薄暗闇の先が続いてゆく。
 不揃いながらも左右対象に生え続いていた木立が途切れ、急に左右に分かれている。次に円筒状の更地が見えた、その先。一瞬、班員は視界に穴が開いたのかと錯覚した。それほどそこには濃く、黒く、深く、唐突な穿ちがあった。

「岩…?」

 誰とも知れない呟きが上がる。すかさずモブリットが片手を上げて制止した。ぐっと唇をかんだ女性兵士が知らず知らずに半歩を下がる。
 確かに、恐らく岩である。岩と呼ぶべきか、山と呼ぶべきか、それは陽を翳らせる枝葉と並ぶほどの背丈でそこに居座っていた。こちらからはまだ距離がある。それでも十分判るほどの、異様というしかない巨躯である。そのふもとには、探索班が語ったとおりに無数の巨人が噛り付いている。林間を巡るかすかな風に乗って、意味を成さない高低のうめき声が漂ってくる。その響きは懇願より怨嗟に近い。何がそこまで彼らを駆り立てるのか、こちらを振り返るそぶりすら見せず、一心不乱に岩壁に取り付いている。少なくともあの巨岩には、こちら五名の気配を打ち消す魅力があるらしい。

「数が増えてますね」

 剣をしまわないまま、硬い声でルカが言った。確かに、見える範囲でも報告された七体以上はいるようだ。小物が目立つが、十メートル前後の巨人も居る。身丈が高いものは岩の表面を引っかき、殴り、歯を爪を立てているようだ。よく耳を欹てると、ガツ、ガツ、と物騒な音が聞こえる。だがそれでも岩はびくともしない。かけらの小石すら落とさず、変わらぬ容姿で泰然と居座るままである。

「やはりあの岩に何かあるのでしょう。あの執着ぶりは半端じゃありませんよ」
「うっわぁ、こりゃあ大発見かもしれないぞ…ああぁあ調べたいねぇえ…!」

 ハンジが小声で吼え、うずうずと胸元を掻き毟った。口元はぎりぎりと歯噛みし、苦笑して、しかし唐突に首を振った。周囲にも燃え上がるようだった執着心をあっさりと収め、慎重に馬の手綱を引く。そのまま馬首を返し、全員に向けて肩を竦めた。

「まっ、でも駄目だ。こっちの人数とあの数じゃ、ちょっと博打が過ぎるよ。一旦引き返して」

 別の班を呼んで来よう、その台詞と来た道から響く速駆けの木霊は同時だった。刹那、轟音が一直線にこちらへ向かってくる。

「班長! 奇行種です! 奇行種の群れがこちらに向かってます!」

 即座に抜剣した班員の耳に聴きなれた声と最悪の単語が届く。蛇行する道から後ろに分かれた班員の一人が飛び出してきた。息が荒い。彼も既に剣を抜いている。

「こちらの挑発に一切靡きません! 逃げてください!」
「他の三人は!?」
「何体かを足止めしてます! ですがそう長くは…」

 語尾は立ち消えた。地響きと供に、背後から明らかな異音が近付いてくる。それは樹をなぎ倒し、道形を踏みにじり、最短距離でこちらへやってくる。

「全員立体機動に移れ!」

 アンカーの噴射音は根こそぎ倒される木々の悲鳴にかき消された。馬が甲高い嘶きを上げて逃げてゆく。辛くも逃れた班員達の足元で、こちらに気づいた巨人が大口を開けて飛び上がっていた。そのうなじに一閃。どう、と巨体が倒れる。
 まずは一体。
 しかし。

「分隊長!」

 モブリットが叫び、剣ごと指し示す先、ついで現れた巨人は四体。完全にこちらを認識している。あれほど甘美らしい件の岩にもう見向きもせず、足場代わりの高木を根こそぎ倒す勢いの猛追である。末木に取り付く人間を求め、根元をゆすり、樹皮を剥ぐ。しかしさらに一体、班員二名による多角攻撃にひれ伏した。冷気を蹴散らす熱い蒸気が上がる。撓る刃を確かめ、ハンジが叫ぶ。

「やむを得ない、此処で迎え撃つ!」
「撤退すべきでは!?」
「樹が途切れた先からどーすんのさ! じき増援が来る! それまで皆耐えろ!」

 言うが早いか、ハンジは次のアンカーを繰り出した。射出、巻き戻し、ワイヤのしなりは目測どおり、瞬く間に喜と怒の顔をした二体の間を掠め飛ぶ。血しぶきは少ないながら、それらは同時に斃れた。これであと一体。岩に取り付いている分は無視を決め込む心算である。岩とは逆方向、林への出口付近で馬を呼び、増援到着を待つ。立ち込める蒸気の中を影だけが飛んだ。白い渦が逆巻き、ゆるく尾を引きながら、ルカが飛び出してくる。

「ハンジさん、まずそうです」

 ちらともそう聞こえない口ぶりのまま、彼は片手で刃を変えながら抜きん出て高い樹の中腹に取り付く。その根元から新しい蒸気がもうもうと上がり始める。どうやら彼が残る一体を始末したようだ。これで後続の奇行種は全滅したはず。しかしルカの視線は例の大岩へ向いている。ワイヤを巻き上げながら、つられてハンジもそちらを向いた。

「…最悪」

 岩に取り付いていた巨人全体の目が、一斉にこちらを見据えている。




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