地獄は24時間営業である。
ひとたび地獄に落ちた罪人へ間隙を与えずひたすらに苛み続けるため、獄卒のシフトは早出、昼、夜勤と3交代制のシフトで成り立っている。基本は固定シフトの希望を認めておらず、上長が「業務を円滑に行う」という大義名分の元ランダムに作成され、月末に発布となるが、獄卒の中でもベテランになるにつれ休み希望やシフトの融通など、暗黙の了解が横行していた。結果、辛い夜勤は新卒に回される。若い時分に容赦ない風潮はさすが公務員である。
だが、夜勤にもいいところは有る。見回りと称した査察である官吏の往来が途切れるのだ。彼らの数自体はそれほど多くはないが、その所為か多忙ゆえにいつ何処に訪れるという前触れは省略されてしまう。早朝・昼勤務の獄卒はいつ現れるとも知れない鬼神の気配を警戒しつつ、びしっと仕事をこなさねばならない。しかし、夜になれば方々へ出回っていた官吏も引き上げてゆく。官舎にて書類作成などの事務作業を行うと聞くが、詳細は不明だ。確かなのは「夜間は安全」という事実一点だけである。
自然、夜になると若い獄卒の気は緩み雑談も増える。部署によって異なるが、ここ黒縄地獄の旃荼処(せんだしょ)は際立って顕著だった。
黒縄地獄は他の地獄と比べて、体育会系が多い。体育会系とはすなわち、上下関係である。夜勤を任される若い獄卒たちの中にも細かく序列があり、下に行くにつれ扱いは過酷になる。旃荼処は生前麻薬中毒患者だったものを苛むところで、此処に勤める獄卒は鬼のほか、烏、鷺、猪などがいる。獣は体躯を生かして亡者たちの局所へ責め苦を行い、弱って倒れたところを鬼が杵や斧でしたたかに打ちつけるのが主な作業分担だ。
ただ、獣たちは主にパート勤務の為、夜勤は行わずほぼ残業もない。遅くとも夕方六時にはみな帰ってゆく。鳥目が夜勤に向かないのと、子持ち主婦が多いからだ。ならばと夜間に割く人員を増やすべく正規雇用を雇おうにも、黒縄地獄自体が諸般の事情から財政難に陥っており、それも難しい。反して、この地獄に堕ちる人間は日が経つごとに増える一方だ。状況は悪しき反比例である。
以上の事情から、夜間はめっぽう人手が不足していた。
(ああ、腰痛ぇなぁ…)
もう何度目かもわからない杵を振り下ろしながら、新米獄卒鬼・枳殻はぼんやりと思考を漂わせている。辺りには自分と同じように疲れた顔で獲物を振り回す同僚と、エイトビートで打たれる亡者の絶叫をBGMに、先輩に当たる獄卒の哄笑が被さるように響いている。
枳殻はこの春に獄卒として採用されたばかり、ぴかぴかの一年生である。八大地獄、それぞれに付随する十六小地獄、合計136の部署を見て回った末に此処へ配属希望を出したのは、あまり彼の意思ではない。学生時代にやっていた部活の先輩から誘われたためである。その先輩は今、後ろで仲間数人とはしゃいでいる。どうやら、こっそり持ち込んだ酒類やつまみとともに、軽く小宴会でもしているようだ。
「おら枳殻ぅ、しっかりやんねーとそいつら反省しねーぞぉ!」
「おわっ、ははははい!!」
檄とともに空き缶が飛んできた。当たりはしないが足元ではね、高い音を立てて暗がりの奥へ転がってゆく。回収するのももちろん後輩の仕事だ。出なければ明日、本当に怖い早朝勤務の連中に見つかればどやされるどころではすまない。
バレはしない程度に溜息をつき、同僚へ視線を投げて頷きを返されてから、空き缶が消えた方向へ走り出す。亡者の攻めは一時中断だ。亡者にとってはありがたい一息だろう。結構、枳殻にとっても同じである。
はたから見るといじめに近いだろうが、体育会系の上下関係なぞどこも同じようなものである。事実、枳殻も時分が最高学年だった頃は色々と後輩を顎で使ってきた。彼らも自分も共通して言えることは、相手に理不尽な暴力を強いたりはしない。ただ威張る。ひたすらに、威張る。そしてこれは時が解決する問題なのだ。
目下、問題といえば別にある。この全身筋肉痛だ。
「はぁああマジ温泉いきてぇ〜」
小走りに進むにつれ、びきびきと腰骨が細かく鳴る。肩や腕も同様だ。斬っても突いてもやがて再生する亡者を痛めつけるのは、こちらとしても重労働なのである。
「せめてもう一人か一頭くらいいればなぁ、そしたら頑張れそーな気がすんだけどなぁ。鳥どもは夜役にたたねーし」
ぶちぶちと呟きながら、そこらで焚かれた篝火を頼りに薄暗い岩陰を探す。遅れればまた野次が飛ぶだろう。なんてことはないが、鬱陶しい事に変わりは無い。
「条件がよくなきゃおばちゃんたち絶対夜勤はしないだろーし…でもぶっちゃけ、需要はあると思うんだよな。バツいち子持ちとかで水商売嫌いの人とかにゃ」
「同感です」
「…ん?」
独り言の羅列に割り込んだ声がある。かがみこみ、下を向いていた顔を上げた先、長身の人物がほの暗い物陰へ半ば融けるように佇んでいる。左手で大リーグ打者のように金棒を担ぎ、右手には捜し求めていた空き缶が握られている。銘柄は既に見えないが、多分缶ビールだ。鈍い銀色の塗装が淡暗がりの中にてらりと光っている。
「やはり女性が一人で子育てしながら働くということは並大抵のことではありませんからね。なるべく時短で、かつ給与の高いところを求めるでしょう。その最たるものが水商売というわけですが、最近は保育所や幼稚園が保護者の職業を注視する傾向にありますから、多少過酷でも工事現場などの夜間バイトは人気が高い。お子さんが寝静まった頃に働けるというメリットもありますしね。よい着眼点です」
「あ、ありがとう、ございます…?」
長丁場の台詞を淀みなく言い切った男に、枳殻はしゃがみ込んだままとりあえず礼を言った。語尾だけだが、褒められた気がしたからだ。しかし言葉に抑揚が全くないためいまいち確信がもてない。
「正規雇用者をきちんと雇い入れたほうが、長い目で見て企業財政的には安定します。しかし、それはあくまで雇う側にそれなりの体力がある場合に限る。昔話でもありますね。舌きり雀に登場する老人はその体力のなさから大きなつづらを持ち帰れない」
「はあ」
「となるとどうするか。小さいほうを取るのです。見入りは少ないがゼロではない。量は劣るが確実に手に入る。それを元手に立て直しを図るのが一番です。ところで」
ぐしゃ、と持て余されていた缶が握りつぶされた。地獄の缶ビールはアルミではない。スチールである。
「これはアナタのでしたか?」
「ヒィィイイイイイイ断じて違います!」
「そうですか。残念です」
「なんで!?」
尻餅をつきあわあわと後退る枳殻に向かい、闇に紛れる様だった男がついと足を向けた。篝火の手が届くところへ姿を現した男はやはり随分と背が高い。枳殻と同じ一角の鬼だ。アカミミガメそっくりの眠そうで切れ長の目が、じっくりとこちらを見下ろしている。心なしか、見下ろしている様がしっくりくる。裾の長い黒衣を低い位置の帯で締め、草履を履く足は素足だ。この着衣を許されるのは、地獄の中でも一握りである。
「ってぎゃぁぁああああああああッ! 鬼灯さまぁ!?」
「そうですよこんばんは」
「あっはいこんばんは、いやじゃなくて! な、なんで今此処に…夜ですよ!?」
「夜ですね。タレ込みがあったのです」
ぐしゃぐしゃぐしゃ、と片掌でスチール缶を握りこむと、そのまま小さな鉄塊と化した成れの果てを袂へしまいこむ。並大抵の握力ではない。半泣きになりながらも、枳殻は猫背気味に身を起こした。微妙に恐ろしい単語が聞こえたのだ。
「タ、タレ込みすか…、差し支えなければ、どんな内容の…?」
「まあ、不確かな噂のようなものですよ。夜勤の鬼獄卒がまともに仕事もせず、あまつさえ酒宴まがいのことも開いているとか何とか」
終わった。先輩が終わった。
「しかし耳に入れた以上看過するのも得策ではないと思いましてね。幸い今日はあのクソ…閻魔大王もよくお勤めですし、散歩がてらに見回りです。枳殻さんに会えたのはちょうどいい。一緒に行きましょう」
「いや、すんません、俺実はいま母親が超危篤でして、今すぐ早退せねばならないことを思い出しましたすんません」
「御母堂なら先ほど門前でお会いしましてね。アナタをよろしくと差し入れを預かりましたよ」
「ちょうどいいってそういうことかぁあああ!!」
話しながらも首根っこを引きずられるようにして、今しがた枳殻が来た道をすたすたと進んでゆく。言葉どおり、丁寧に竹皮に包まれた包みが渡された。母の愛は気恥ずかしいがうれしい、だがタイミングが悪すぎる。
まずいことになった、と枳殻は青褪めた顔で篝火の先に目をやる。鬼灯の足運びは容赦なく的確だ。あと数分であの小宴会場にたどり着くだろう。人のことは言えないが、陽気でだいぶ馬鹿な先輩たちがいきなり改心してせっせと職務に励んでいる可能性は皆無だ。恐らく、この時間はパンイチでもう何度目かになる武勇伝披露に差し掛かっているだろう。
馬鹿であほで偉そうでちょいダサでも、大事な先輩だ。なんだかんだでかわいがってはくれているのだ。ここは自分がなんとかせねばなるまいと、枳殻は首根っこを掴まれながら必死に頭を巡らせてゆく。
鬼灯というこの鬼は官吏の中でも特に有名である。泣く子も黙る閻魔大王を泣かせる怜悧な第一補佐、叩き上げの鬼神だ。その辣腕は職務上の怠慢や不正を一切よしとせず、上司であれ誰であれ、最終的には腕づくで制裁する性質ときく。伝聞のみで実際に彼の日常勤務を眺めたことはないが、その恐ろしさの片鱗は新人研修のときに骨身にしみた。それは、先輩方も同様のはずである。
下手な小細工は通用しない。ここは平身低頭、自分が謝って執り成すしかない。
「ほ、鬼灯様、ちょっとお待ちください!」
「厭です」
「即答!? いや、ホントに、ストップストップ! これにはわけがあるんですって!」
「ほぉ、職務中に酒飲することに理由がねぇ」
「うっ、そ、それはたしかにアレですけど…、でも原因はやっぱり労働環境にもあると思うんです!」
物言わぬまま、鬼灯の足が止まった。捨て身の嘆願が功を奏したか、と枳殻の気が緩んだ瞬間、掴まれていた襟首に妙な力が込められる。おや、と思う間もあらばこそ、そのまま右手一本でぶん投げられた。
「どわぁああああああ!?」
「言い訳結構。ですが面倒なので皆さんまとめて申し開きをしてもらいましょうか」
着地点は輪の中心である。いつの間にか、酒宴会場へ着いていたのだ。枳殻の予想通り、宴も酣の様で、体育会系らしいむくつけき大鬼たちがパンいちで呆然としている。セオリー無視の官吏の登場に頭がついていっていないのだ。腰から落ちた枳殻は暫く悶絶していたが、痛みに顔を顰めながらもあんまりだと叫ぶ。
「話を聞いてください! この際だからいいますけど、黒縄はそもそも微妙なんです!」
「ほぉ」
鬼灯は相変わらずの無表情のまま、かすかに顎をしゃくった。続きを促す仕草のようだ。枳殻は一瞬ひるんだが、周りで呆け立ちしている先輩連中を見て、目を吊り上げる。見事に割れた腹筋が乗る腹に描かれたむかつく顔と目が合ったのだ。唸るようにして新卒入社以来の不満をぶちまける。
「偸盗の罪を追った亡者が集められるとか言って、実際は自殺とかラリった麻薬患者とかそれ盗みじゃねぇよって地獄ばっかだし、あげく財政難で十六小部署のうち十三が閉鎖って、なんスかそれ!完全に窓際じゃん! 俺の同期みんな衆合に行ったりしていい目みてんのに、ここにゃヤローばっかだし!」
「パートの方がいるでしょう」
「おばちゃんじゃん!子持ちじゃん!」
「子持ちを悪く言うと色々非難されるからよしなさい」
何をがなっても抑揚のない静かな声に返されるうち、枳殻もだんだんと落ち着いてきた。不満をぶちまけるだけではいけない。先輩の減刑に話を持っていかなければ。
「と、とにかくですね! 人手が足りないんですよ。獣たちはご存知のとおり夜勤には向かないし、朝昼はベテランのおばちゃんたちに占領されてるし。先輩たちだって、いつもこうってわけじゃあないんです。長いことおんなじ仕事やってると、きっと俺にはわからない不満とかがたまっちゃうんでしょう。会議に行かれては他の部署に馬鹿にされるって聞きました」
「枳殻…」
とつとつと話す枳殻に、周りの大男どもが少しうるっと来る。鬼灯は黙ったまま微動だにせず、開いているのか微妙な目で枳殻の辺りを眺めるだけだ。
「俺が杵搗く分、報告書の作成とかは先輩にまかせっきりだし、ほかの事だってまだまだです。だからこれは、今日たまたま、ホントにたまたま憂さ晴らしで行われただけであって、決して常習ではありません。もちろん俺も、脅されていってる訳じゃありませんし。どうか賢明なご判断で以って、寛大なるご寛恕を…」
尻すぼみに小さくなる言葉尻で終わり、あとは、相手の出方を待つ。ここに来てようやく自体のまずさを悟った男どもがおろおろと地面に正座した。全員無駄にムキムキで半裸の為、相撲部屋のようである。隅で固まっていた亡者も事態の異様さにごくりと生唾を飲んだ。さてどうなるか、枳殻が息を潜める中、ややあって、ようやく鬼灯が口を開いた。
「あ、終わりました? 言い訳」
「やっぱ寝てたんかぁあああああああ!!」
この薄目! この釣り目! この糸目! と先ほどの健闘も何のその、いまどきの若者らしくすぐに切れた枳殻が怒髪天でものすごい悪口を言い始めた。くぁあ、とあくびを一つ、左肩に担いだままの金棒でとんとんと首筋を叩く。
「職務が辛いのは皆同じ。どこの部署も多かれ少なかれ不便なところはありますよ。それを発散する方法も各個人の自由でしょう。しかし、それとこれとは話が別です。旃荼処がいまどき珍しいガチムチの体育会系というのは聞き及んでいましたが、まさかこれほどとは。後輩を顎で使うのはともかく」
(ともかく…?)
「まあ、しかし、確かに黒縄の現状については少し考えなければなりませんね」
ぐるりと首を巡らし、鬼灯が辺りを見回す。彼らが今いるのは旃荼処ではメインにあたる大広場だが、何せあちこちボロい。篝火だけは立派に焚かれているが、刑具の整備も不完全で数も少なく、修繕して間に合わせているのがほとんどだ。
顎に手を当て、何事かを思案しだした鬼灯を眺めやりながら、枳殻がジリジリと後退しだした。そのまま、彼をここに誘った張本人へ耳打ちする。
「今がチャンスっぽいすよ、そーっと逃げてください、そーっと。後は俺が何とかしときます。できないかもしれないスが」
「お、おお・・・すまん、恩に着る!」
「服着てくださいよ」
言われたとおり、大鬼どもはなるべく身を縮こませながら後退を始める。立ち位置が功を奏したのか、篝火の陰に身を滑り込ませる頃まで、鬼灯は虚空を見上げて一言も発さない。そのまま枳殻と同じ新米鬼だけが場に残るに至って初めて、鬼灯が顎から手を離し、何度か頷いて枳殻へ向き直った。ここからが正念場である。
「改善の余地は大いにありそうですね。話には聞いておりましたが、自体は想像以上に切羽詰まっているようです」
「ご理解いただけてなによりです。俺が言うのもあれですが、増員と備品の新調がお願いできればうれしいですかね」
「後者は善処しましょう。問題は、前者ですね」
明らかに姿を消している下手人についてはなにも言わず、鬼灯は袂を探りながら言う。
「確かに人手は不足しているようです。しかし、まだまだ内部で以ての改善の余地もあるのではないでしょうか」
そういいながら取り出したのは、先ほど丸めて固めた缶ビールの残骸である。あれも動かぬ証拠の一つだよなぁ、と枳殻が冷や汗をかきながら見つめる前、鬼灯は何度か掌の上で投げては受けるを繰り返し、やがて高々と放り投げる。
「なにはともあれ、」
胸のあたりに落ちてきた鉄塊を、金棒の豪快なスウィングが弾き飛ばす。
「あなたがたは減給です」
「ぎゃああああぁぁああ!!!」
「せ、先輩ぃっ!?」
遠くの方で連続した打撃音と野太い悲鳴が上がった。おそらくだが、あの缶ビールによってピンボールよろしくまとめて始末されたのだ。クリーンホームラン振り切った姿のまま暗がりの彼方を見つめていた鬼灯が、やがて満足げに金棒をおろした。ちなみに、ほかの面々からは闇色以外なにも見えない。
「追って正式な沙汰を出しましょう。で、枳殻さん」
「ヒィイイなんでございますでしょうか・・・!」
「何を脅えてるんですか。アナタ方の処分はいったん保留ですよ」
再び五体倒置の勢いで正座した新米極卒たちの前で、鬼灯は眉を顰めて言う。ではなにか、とびくつ枳殻に向かい、鬼神の官吏はいつも通りの冷徹さで言った。
「この際ですからちょうどいい。アナタには旃荼処代表として、黒蠅の財政難解消に尽力してもらいましょう」