Roller

 

それを聞いたとき、はすっと背筋に冷たいものが駆け上がるのを感じた。



 急に深く冷たい水の中に突き落とされたように、頭の中から酸素が抜け、何も考えられなくなる。息が詰まり、目の前の風景が歪んで、もう随分と見慣れたはずの紅い髪だけが鮮明に映った。すっかりと青年になった彼はいつもと同じように里に帰ってきたけれど、その隣にいつも有った彼女の姿は消え失せている。闇夜にも煌いた金糸雀色の髪は血反吐と共に、猿飛佐助の掌に絡みついていた。

「そういうわけだから、長の処まで一緒に来て。多分お前も何か訊かれるとおもう」
「……本当なの、」
「これが証だよ」

冷め切った声が向き合う少女に言う。彼の淡々とした視線は己の掌の先、刈り取られた見事な髪束に向けられていて、困惑に揺れるまだ幼げな瞳を見据えはしない。

「本当に、姉さんが、此処を」

先ほど背筋を駆け上がったものが、今度はゆっくりと足元まで落ちてゆく。それに合わせて少し呼吸を取り戻せたが、あまりに重たくなった心身はそのまま地面にめり込んでいくようだ。現実は夜と共に草臥れた忍装束を包み込む。長く滴る髪を持つ男はやがて踵を返し、一足先に目的地に向かう。は辛うじて残る金の軌跡を目の端に捉えたまま、暫く動けなかった。たった今一人の優秀な忍が死に、そして反逆者と追跡者が生まれた。



本当の処、明確な理由なんていう気持ちのいいものは見当たらない。ただ原因と結果があるだけで、その間にある秘密は当事者同士にしか知りえない。恋、そんなものが理由になるのだろうか。ぼう、と灯された明かりが揺れる、沈黙が支配する室内に座したまま、はしっとりと目を閉じている。瞼裏の暗闇に浮かび上がる眩い面影は鮮明で、二目と知らない美しい髪は長いまま、思い出の中で燦々と煌いている。春の陽のようでもあり、玲瓏な月光でもあった極上の絹糸は、今や荒々しく断ち切られた断面もそのままに、粗末な板敷きの上に投げ出されていた。赤黒い血の染みが斑に飛んで、遠目には剥ぎ取ったばかりの獣の毛皮に見える。
姉さんは怪我をしたのだろうか、大丈夫だろうか。そんな心を、はゆっくりと一つ一つ、殺している最中だった。

「事実ならば躊躇は要らない」

 滅多に話すことの無い里長の声は、深い地鳴りのようにの身を揺らす。傍らにて同じように座す猿飛佐助は、はい、とだけ簡潔に答えた。それは肯定と、了承の返答だと、その場の誰もが理解する。視線の網はやがて流れるように沈黙したままのを捕らえた。
頷かねばならない。裏切り者を抹殺するのは同時期に忍となった者であるという絶対の掟だ。しかし己より何枚も上手である手練の上忍連中に囲まれて、業に劣るこの身が誅殺を買って出るのは何処か滑稽である。猿飛佐助一人いれば、件の彼女を屠るくらい、わけは無いだろう。その事実を誰もが知っているのに、誰も何も言わない。あるのは原因と結果。彼は彼女の髪を刈ったが、命を獲るには至らなかった。



痺れを切らしたか、巌の声が己の名を呼ぶ。目を閉じれば闇、開けても闇。同じなのに、そこに彼女の姿は無い。

「判っております」

 適切な返答だった。



忍の活動は月齢によって粗方が決められている。灯りなど無い闇の中で月は大切な光源であり、同時に陰を照らし出す足枷である。誅殺は仇討と同格であり、憚られず行われる決闘であるからして、人目よりも動きやすさが尊ばれた。ひとつ、呼吸をすれば、古布に染み込んだ沢山の匂いが鼻腔を貫く。顔当ては目許以外を凡て覆って、その僅かに露出した皮膚は殊更寒さを拾った。ぴりぴりと痛みが走るたび、頭の芯はぼうと霞む。タ、と松の枝を蹴った足元から僅かに音が漏れ、それがどれだけ己が動揺しているかということを教えてくれた。そうだ、何ひとつ割り切れてなどいない。このまま、あと数日を過ごせば、凡てを割り切った彼が動く。そうなれば姉と親しんだ血縁も何も無い彼女は、今度こそ本当にこの世から居なくなってしまうのだ。何処か知らない処で勝手に生きるのと、自分の目の前で死んでしまうこと。全然違うようで、少しだけ似ている。どちらがいいかなんて、思う権利すらには無いのだ。だからこそ会いたかった。言葉でも結果でもなく、現実として、死んでしまった彼女を見たい。
さっきから、風と一緒に陰が飛ぶ。

「姉さん」

 呟きに帰るのは銀糸の如き軌跡を見せる明確な刃だった。ヒュ、と耳の横を過ぎる獲物に懐かしい匂いを感じて、条件反射に動く指先の動きを押さえつける。飛苦無を握った手を握り締めてから、撓る枝先を蹴って宙に舞った。逆さになる視線のさき、再び手裏剣を構える妖艶な体躯。鬢だけはそのまま長い、美しい髪。

「姉さん」

 重力に随って落ちる躰。その眉間、咽喉、水月を寸分違わず追う切っ先。かわさずに叩き落して、は今度こそ音を殺して地面に降りた。間向かう先に、悲しい顔をした死人がいた。

「…姉さん、」
「帰れ」

 沈痛な声音は何よりも雄弁に、死人に堕ちた彼女の末路を物語る。忍はこんな声を出してはいけない生き物だ。それは、人間の声だ。

「本当なの、姉さん。本当にあなた、姉さんなの」
「…、」
「どうして、何故、有り得ない」
「頼む、帰ってくれ。今なら見逃してやれる」

お前を殺さなきゃならない、そんなのは厭だ。美しく甘い口元はの知らない言葉ばかりを紡ぐ。
はそれが、とても悲しい。

「わたしも姉さんを殺さなきゃいけないの」

 己でも驚くほど、頼りない、消え入りそうな声だった。言われた女はぴくり、と幽かに身を跳ねさせる。

「判ってる。わたしが姉さんに敵うわけ無い。向かったところで返り討ちだわ。そんなこと、私が一番よく判ってる。だから、わたしが殺せるのはわたしの中の姉さん。強くて綺麗で、長くて美しい髪のままのあなた。ねえ如何して、」

 キン、とが構えなおした刃が鳴る。獲物をかざしたまま、しかし動く気配を見せない彼女に、対する女は悲痛な面持ちの侭身構えすらしない。

「忍が厭になったの。夜が厭になったの。人に成りたくなった、」
「いいや、」
「血に厭いたの。侍共が滑稽になったの。莫迦の相手は辛いものね」
「違う」
「何か厭なことがあったの。何か悲しいことがあったの。里が、兄さんが、…わたしが、嫌いになった、」
「…逆だ、」

 とてもささやかな風が吹いて、俯いた女の残り毛を緩やかに巻き上げた。

「好きになったんだ」

 は何も言えなくなった。
 その彼女を見て、元来寡黙な女は、ポツリ、ポツリと唇を動かす。

「いつかお前にも判ればいい。私は、だから、死んではやれないんだ。お前が私を殺すというのなら、私はお前を殺さなきゃならない」
「わたしに姉さんは殺せないわ。判ってるでしょう」
「…ああ、」
「だから獣が来る」

 絞り出すような声が己から出るなんて、と、の頭のどこか別の部分が、勝手に驚いていた。

「あの人が来るわ。あなたを殺しに。わたしはそれを見るだけ。見なきゃいけない」

 腕で勝る彼は、猿飛佐助としてでしかこの女を殺せない。誰もいない闇世の中での一対一なら、決して最後の一掻きを食らわせられはしないだろう。だからが要るのだ。が見るのだ。が、証となるのだ。誰よりも自分自身が両者の理性を殺す。

「だから、ねぇ、お願いよ」

 そんなことは耐えられないのだ。

「あの男に殺されるくらいなら、それがわたしでもいいじゃない?」

 は己の口角が吊り上るのを、どこか他人事のように感じていた。喩えるなら、意に反して痙攣する指先、瞼、脹脛。無意識のうちに肉体が欲する行動と同じく、今確かに自分は笑っている。全身が歓喜に打ち震えている。
 目の前に獲物を構える死人の女。彼女はの顔を見て、夜風に乗せてごくりとひとつ喉を鳴らした。









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