竜宮の使い

「何だお前、何処のどいつだ」




「…おいおい……」
「気安く近寄ってんじゃねーぞ変態。誰の許可があってあたしにべたべた寄り添ってんだ、ふざけんな」

 男の言い分など全く意に介さず、脅えた猫のように身を竦ませた女は低く唸った。先程の静謐さなど何処へやら、口を開けばとんだ擦れっ枯らしである。濡れたままの髪先からぽたりぽたりと際限なく滴が垂れ、目に付いた男が何か拭くものでも、と辺りを見回す動作にすら、女は過敏に反応し、無理に後退る。ここで叫ばれて誰か来でもしたらそれこそ収拾がつかなくなる。男は一先ず諸手を上げ、害意の無いことを示す。効果は余り期待できないようだ。
 只でさえ、強面だという自覚はある。背丈も体躯も大きな見知らぬ男に抱かれて目を醒ませば、此処まで警戒するのが妥当かもしれない。なるべく刺激しないように、と意識して、至極ゆっくりと唇を動かす。

「どっか悪いところはねぇか? あ?」
「あたしの質問に答えろ。耳が無いのか莫迦」

 珍しく気を使ったところでこれである。流石にむっと顔を顰めた男にも、女は負けじと眦を吊り上げて真っ向から睨み据えてくる。
 睨みあう事暫し、溜息一つでこれを往なしたのは男の方である。手下どもや陸の民衆がこの様を見れば目を剥くであろうが、だからといってこのままでは何も進まないし、始まりすらしない。西海の鬼は女子供にも容赦しないが、それは戦場での話だ。

「俺ぁ、元親。長宗我部元親だ。名前ぐらいは知ってるだろ」
「………長宗我部? 鬼の殿様の?」
「ちっと語弊があるがよ。ま、多分それだ」
「嘘」

 正式な名乗りをばっさりと切り捨てられ、あのなぁ、と途方に暮れる長宗我部元親をまだ睨みながら、片時も警戒を解かない女は動きづらい着物の衿を押さえ、じりじりと後方へ下がる。

「殿様が何でこんな所にいンだよ。吐くならもっとマシな嘘を吐きな」
「こんなしょうも無いことで誤魔化してどうすんだ」
「知るか。大体、長宗我部様は目が醒める様な美形で、一目見ればそうと判るって…」

 語尾が宙に彷徨ったのは、つり上がる視線が銀に輝く鬣を捉えた事と無関係ではないはずだ。上衣の無い堂々たる体躯の出で立ちに、左目を無骨な眼帯で隠す鋭い顔。そのどれをも凌駕し従える眩い頭髪は、乱雑に掻かれながらもしっとりと呼吸し、室内の鈍い反射光の中でも決して存在を消さない。西海に轟く鬼の風体は三つの子供ですら知っている事だ。

「嘘…」

 先程の言葉とは含む意味が違うことに気づき、元親はにやっと頬の筋肉を緩めた。漸く少し警戒を解くかもしれない。

「成る程、一目見れば判るか。俺も有名になったもんだなァ」
「四国の茨木童子…、あんたが、ほんとに?」
「納得したか?」

 沈黙は肯定か、憮然とした表情はそのままに、先程までは真っ向と投げつけていた視線も他所を見て沈黙している。一先ずの身上は理解されたようだが、だからといって天上人と畏まられるのも御免である。
 さてどうしたものか。さっきとは違った思慮を持て余す元親の前、顰めた顔を改めない女が、なんで、と呟いた。

「なんであたし、こんなところで寝てるの」
「何でってそりゃ、俺が助けたからに決まってんだろ」
「頼んでない」
「…お前な」

 命を救って礼も言われないとは。流石に元親もふつふつとした怒りを覚え、あまり押さえることなくその気配を女へと向ける。濡れたままの黒髪を乱雑に垂らす女は身を低くしたまま膝から立ち上がり、ふと己の風体を改めて見下ろした。覚えの無い大きな着物、その下は見事に全裸だ。途端顔色は真っ青になる。

「…誰が脱がしたの」
「あのな、人にものを訊く前にまず言うことがあるだろがコラ、ぁあ?」
「うるさい! 誰が脱がしたのって訊いてンだ!」
「喧しいのは手前ぇだタコ! 俺だよ、俺に決まってんだろーが!!」
「っ、最低!」

 ブン、と空気を裂く音を響かせて、転がっていた空桶が投げつけられる。交わすには交わしたが、いくら何でもじゃじゃ馬過ぎる。しかし、本人の了承なく勝手に脱がした事も事実だ。後ろめたさが迷いを生み、迷いが間を育んだ。逡巡をどう取ったか、娘は激昂に頬を染め抜いて、投げ捨てられていた緋色の着物を掴んでは飛び退る。

「勝手なことすんじゃねーよ! 侍だからって思い上がりやがって、なんでもかんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いだ! この変態野郎!」
「あっ、オイ!」

 静止も聞かず、娘は脱兎の如く船室を脱出する。まずい。外では若い女に飢えた荒くれ共が屯しているのだ。まさか遊びやしないだろうが、それでもからかわれる位はありうる。そうでなくとも、誤解を招く服装だ。慌てた男も続いて外に出れば、途端目を欄と輝かせて囃し立てる男どもが喝采を上げた。

「やるぅ、アニキィ! 早速お楽しみだったんですかぁ!?」
「女が丈の合わない着物を纏うっつーの、たまんねーよなぁ」
「余ったら廻して下せェや。遊び女だったんすか、こいつ」
「放せ…っ!」

 案の定、あっさりと捕まった女は屈強な手に二の腕をとられ、何とか離れようともがいているところだった。顔つきこそ兇悪だが、根は気のいい連中だから、口でいう卑猥な言葉ほど女に無体を強いることはない。だが相手がそれ専門の商売女となれば話は別だ。多少の融通が利くだけに、手加減を忘れる。
 やれやれ、全く面倒な拾い物である。
 思わずどっと吐き出しそうになる溜息はぐっと押し込んで、元親は下っ腹に力を入れなおした。

「莫迦やろうどもが! 遊びも大概にしとかねーと、手前ら纏めて海に放り込んじまうぞ!!」

 腹の底から怒鳴り上げる、鍛え上げられた大怒号だ。性根を叩きなおされている連中は即座に反応し、へい!と揃いの返事を上げる。
 その一瞬の隙、拘束された二の腕の力が緩んだ隙に、女は身を翻し船頭へと走り出した。

「あっおい止まれ!危ねーぞ!」

 答えることなく女は走る。いくら凪いだ海とはいえ、海上だ。立ち上がる波を突き、裂いて進む船の揺れは紛れないものである。見るからの素人が慣れぬ板敷きで全力疾走などしようものなら、結果は火を見るより明らか。また青一色の中へ逆戻りである。
 チ、と舌打ちし、元親は飛ぶように女のあとを追った。どうせ進んだって海原の上である。何処へも行けぬというのに、一体なんだというのだ。

「何処行く気だよ、落ちるぞ!」
「落ちるのよ!」
「はぁっ!?」

 死ぬ気か、そう思う彼の前で、存外敏捷な彼女は抜ける空と海の待つ先へ迷うことなく駆けて行く。
 ―――間に合わない。
 覚悟する距離の果て、ふと、あれだけ躊躇のなかった女の身が止まった。
 前後させていた両腕を弛緩させ、あと二歩でまっさかさま、そのふちで立ち止まり、海を見る。
 前方から吹き付ける濃密な潮の風に、長い黒髪と抱えたままの緋衣が鳥のように翻った。

「ッいい加減にしやがれ!」

 身体が追いつく前、先に届いた腕が華奢な女の身を抱き込んでは後方へと投げ捨てた。幅広の裾がぶわぶわと翻り、女の躰は無様にも板敷きの上を転がる。帆台に腰を打ち付け、漸く止まった。そのまま中々起き上がらず、呻いて咳き込む。盛大に力加減を間違えたのだ。

「わ、悪ぃ、大丈夫か!?」

 慌てて駆け寄り、抱き起こす。その手は乱雑に払いのけられた。

「…なんであたし、こんな所に居るのよ」

 咽た所為なのか、水気に潤んだ瞳が叩きつけるように睨み上げてくる。その唇が紡いだ言葉の意味は、先程とは明らかに異なっていた。






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