竜宮の使い

掬い上げて船上に連れ込んでから早一刻。




 娘は淡く呼吸するだけで目を醒まさず、また動きすらしない。
 陸へと戻る途中だった船は気を取り直し、舵も取り直して、再び颯爽と海上を進んでいる。粗方の指示も終わり、些細な混乱を沈めた今は静かなものだ。他は特にすることもなかったので、救い主である西海の鬼は屈託なく娘の傍らに胡坐をかいて侍っていた。
 都から以西をほぼ手にする男が乗る船としては聊か矮小なこの船は、元々偵察用兼試験的に造船した遊泳用の予備船である。本船は先の戦にて大小の負傷を追い、今頃は手厚い看護を享け穏やかに眠っている筈だ。よって、今回の航走は航海とも呼べない只の暇つぶしである。領海の大体をぐるりと廻って、数日で帰帆するつもりだったため、物資も最低限、人員も渋る子分どもを説得しての少人数である。その為に、船医などという上等な人間は乗せていなかった。まさか仇になるとは。海というものは本当に、何が起きるのかさっぱり判らない。
 ふっと息を吐いて、落ちかかる鬱陶しい前髪を散らせば細小魚のように光る。芯まで濡れた筈だが、乾いた潮風と海水は存外早く散れてしまうようだ。日に焼けて痛んだ髪先だから、一層顕著に感じてしまうのかもしれない。
 多少だけ応急手当を齧った事のある男がにやける頬を抑え、頭目に凄まれながらも手早く診たところ、細かい切り傷や擦り傷などは兎も角、目に見える分には問題は無いとのこと。脱がしてみりゃもっとよく判るんですが、との軽口を拳骨で塞いでから、重ねて曰く、海水で冷えて衰弱してるだけなら、放っておいても勝手に目を醒ますんじゃないか、とこうだ。なんとも適当な見立てだが、専門でも無いし学も無いのだから無理も無いかと諦める。女には可哀相でも、とりあえず拾ってやっただけでも良しとしてほしい。海の上で何だが、あとは野となれ山となれ、だ。

(それにしたってよ、何でまた海に浮かんでるかね)

 若い娘が一人、五里四方陸も小島すらない大海原に、だ。異様である。何処かの旅船が難破し沈没したとすれ、だとしたら一人だけ浮かんでいるのも可笑しな話である。残骸や積荷が少ないのも気に掛かる。あの程度で想定できる船の規模といえば、せいぜい四、五人が乗れれば上々といったところだろう。そんな軽装で超えられるほど、この海域は易しくは無い。
組んだ膝に頬杖をつき、前屈みになりながら寝入る女の顔をつらつらと眺める。黒い髪に生成りの肌、目鼻立ちも特徴の無い平凡さだから、南蛮人という可能性は捨ててもよさそうだ。纏う衣は中々上等な紅鹿子だが、伸びる手足は荒れや節くれが多少とも目立ち、とても貴人とは言いがたい。髪は長かったが、御座なりな手入れしかしていない所為か、端から乾いていく今時分ではごわごわとした痛みが目立つ無惨さだった。総じて、なんとも不気味な風体である。
 眉間に皺を寄せてあれやこれやと考えていたが、ふと、ある大事な事実に漸く辿り着き、ぱちんと指を鳴らした。

「いっけねぇ、濡れたままじゃねぇか」

 横たわる女の身は掬い上げたままの状態である。当然、海水をたっぷりと含んだままの着物は乾く気配は無いのに、どんどんと体温を奪っていく。
 青く透徹した頬を見て、慌てて己の上掛けを剥いだ男だったが、自然辿り着く事態に直面し、ピタリ、と動きを止める。
 人命救助の為に止むを得ないとはいえ、意識の無い若い娘の衣を剥ぐのは気が引ける。邪な思いは無いが、後ろめたさはある。宙に視線を投げ遣って暫し逡巡するものの、背に腹は変えられないと一つ大きな溜息で片付けた。恨むなよ、と念じながら、女の身体を片手でひょいと抱き上げる。
 見た目通りぐっしょりと濡れた衣越しに、女人独特のやわらかな感触が伝わる。腹を決めた以上、モタモタするのは性に合わず、空いた片手は慣れた手つきで手早く帯を解き、襟を開いて、芯まで冷えた女の裸身を暴いていった。
 なるべく見ないように努めるものの、常人より狭い視界は中々思うように焦点を選べない。豪奢な着物の下からするりと現れたのは、奥暮らしの姫君などとはまるで違う、陽光に晒されて少し色のついた柔肌である。見目に反して、肌理の細かい薄い皮膚はその下に潜む脂肪ごと掌に吸い付いてくる。ツンと張る乳房からくびれた腰の丘陵は、紛れもなく若い娘のそれだった。腰骨から腿、ふくらはぎへと続くまろやかな曲線を一通り辿って、やがてまた懇々と眠りに落ちる女の面に戻ってくる。  貴人にしては痛んだ身形だが、農民にしては綺麗過ぎる手足だ。荒れや焼けこそあれ、肉に穴が開いたり、関節が割れていることも無い。指先は固い、しかし原形を留める紛れも無い女の指である。先程までは費えていた疑念が再び鎌首を持ち上げ、胸の内にとぐろを巻いた。

「…わけありか?」

 眉根を寄せ睨むように問うても当然返事はなく、返るのは規則正しくも弱々しい、幽かな呼吸音のみである。
 しかしそれも一瞬のこと。ま、いいかとさっさと頭を切り替えた偉丈夫は脱がした着物を後ろに放り遣り、今度は明らかに丈の合わない男物の上掛けを起用にも着せ付けてゆく。胴を締める物が見当たらないので、代わりとばかりに手近に散乱していた荒縄で括り上げた。見るからに不恰好な出来だが、今は身形を気にしている場合ではない。
 よっしゃ、と一先ずの声を上げ、仕上げとばかりに腰を持ち上げ捲れた裾を直した。そのまま背を抱き、あとはゆっくりと横たえるだけ。そのときである。
 クン、と後ろ髪が引かれた。

「あ?」

 振り返れど、誰も居ない。見えるのは抱える所為で己の肩口を通り後ろへと伸びた女の腕である。しかし視線が彷徨うその刹那、反り返る指先が緩やかに動き、僅かな光すら集める銀糸を絡めて緩く引く。
 きれい、と小さな声がした。
 淡く透ける瞼が震え、やがてうっそりと仄暗い瞳が姿を現す。焦点は彷徨い、やがて収斂して、絡め取った髪先を愛でては弓形に弛む。ふふ、と木蓮のような唇が吐息を漏らした。

「あなたが竜宮の使い?」
「…は?」

 次いで響いたのは、高いようで低い、軽いようで重く尾を引く、独特の美しい声だった。然して大きくも無いのに、明朗な発音の所為か意識せずともはっきりと響き、余韻はいつまでも鼓膜に残り、内耳を打つ。しかし、紡いだ言葉の意味が不明である。男が盛大に顔を顰めるのも無理は無い。
 しかし、女はその同様を微塵も意に介さず、またゆったりと甘く微笑んでは五指で柔らかい髪を弄ぶ。その瞳は置きぬけに寝惚けているにしては切実で、勘違いにしては鬼気が迫る。千年の待ち人に合えたかのような安堵と、熱を失くした頬の差も特に目立った。
 男がうろたえる間にも、女の唇は淡いまま動く。

「迎えに来てくれたのね、嬉しい。どうか連れてって。待っていたの」
「おいおい、確りしろよ。何言ってんだ。此処ァ俺の船だぜ」

 船、という単語に、女は恍惚の表情をひたと固まらせた。間近から向き合う女からは嗅ぎ慣れた海の匂いが濃密に香る。  夢見る瞳は初めて、点とした知性の光を灯した。

「…船?」
「ああ」
「此処…、あなた」
「竜宮? 魚? へっ、残念だがそんなご大層な処じゃねーし、俺ァもっと性質の悪ィ生きモンだ」
「……人」

 呟いてうっすらと眉間に皺を刻む女に笑い返し、助かったんだぞと安心させようとした矢先、髪を梳いていた腕が敏捷に動き、胸板を突いて距離を取った。
 よろめきこそしないものの、驚きに軽く目を見張った男の前、ぶかぶかの着物を纏った身を低く構え、女は獰猛な獣の顔そのままに、唸った。

「触んじゃねーよ」






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