竜宮の使い

海は水で出来ている。




 当たり前のはずなのに、時折それを疑うことがあった。
 明るい内は青く光り、夕暮れには紅、夜には墨となるそれは、果たしてほんとうにただの水分なのだろうか。
 井戸から汲み、河を流れるそれとは全く違う、塩辛く果てしない底無しの窪。朝陽を吐き夕日を飲むように、日々生まれ、死んでいくものを飼うあれはただ、生き物を入れておく、その場かぎりのいれものだろうか。

 息を止めると 吸い込まれる。

 平らな一枚岩に見える表面は、小刻みに揺れ、割れ、暗闇であれその断面を光らせる。身体を投げ出したら、分裂の下でざわめきから遠ざかる。静寂が親しく耳に懐くとき、それは四肢に纏わりつき、包み、やがては体の内側を這い回るのだ。

 落ちてゆく。

 息を止めて。








 潮の流れもよく、追い風も順調、空は眩暈を覚えそうなほど青く澄み渡る、まさに絶好の航海日和である。事実、先程までは問題なく波を割って進んでいた筈だ。すいすいと海上を航る船体の心地よい揺れに身を任せ、午睡を貪っていたのだから間違いない。それが突如妙な揺れを感じ、あとは見事に失速。流石に寝惚けの勘違いで済ますにはのっぴきならない事態だ。
 むくり、と身体を起せば、いつの間にか顔に被っていた海図がはらりと板敷きに落ちた。次に目に飛び込むのは端に行くにつれ濃くなる水平、あとは雲ひとつ無い空である。春始めにはまだ紺碧だった海面も、今は随分と温み浄瑠璃に近い。時折波立つ白浪が眩く光り、網膜を焼いた。
 日差しを懸念して帆から落ちる陰で横たわっていた分、気温も相俟って存外深く寝入っていたらしい。くあ、と自然に欠伸が出、傾ける首が物騒な音を立てる。銀にさんざめく鬣が好き勝手に撥ねるのが鬱陶しく、その頭を乱暴に掻きながら立ち上がったところで、まるで騒動の幕開けのように男どもの悲鳴が轟いた。
 チ、と短い舌打ちが漏れる。

「うるっせぇなぁ、何事だってんだ」

 ぐぁ、とまたしても勝手に込み上げる大欠伸を吐き出して、寝起きの男はむき出しの胴をぼりぼりと掻きながら大股で歩を進める。先に進むにつれ、大の男どもが喧しく騒ぎ立て、右往左往と走り回っているのが目に付いた。見掛けばかりは威勢がいいが、意外と気のいいこの連中は、だからこそ喧嘩や戦となれば我先にと血気づく筈なのに、この有様ときた。座礁か火事か大物か、当たりをつけながら更に近づけば、此方に気づいた部下の一人が厳つい顔を真っ青に染め抜き、大声を上げた。

「あああ、アニキ! てて、大ェ変でさァ!」

 一人が叫べば全員だ。むくつけき大男の大合唱が海上に躍り上がる。

「アニキ!早く来て下せえ!」
「今呼びに行こうとしてたところでして!」
「うう、海に!」
「ァア? んだよ、誰か落ちでもしたか? ならとっとと助けてやれよ…んあ、俺が行くか?」

 寝起きに一泳ぎ、それもいいかと思った端から、そうじゃなくてと切羽詰った金切り声が馳せる思考を寸断する。

「あそこ、ホラ!」
「は?」

 船縁に身を迫出して、太い腕指が指す先。今は凪いでただ青いだけの海面に、不釣合いな大小の木片が浮かんでいる。難破船の残骸か、はたまた只の藻屑か、どちらにせよ清濁併せ持つ海に於いて然程珍しいことではない。僅かに何かの荷が浮いているにはいたが、それにしたって金目のものとは程遠い、古着や縄や浮き具に樽だ。騒ぐ謂れは無いだろう。
 よって、アニキと呼ばれた男、鬼と名高い四国の雄は盛大に顔を顰め、ついでに持ち上げた拳を容赦なく振り下ろした。その身長の二倍はあるかという巨大な碇槍を獲物とする豪腕だ。当然、鉄拳を喰らった手下は情け無い悲鳴を上げて悶絶する。

「シけた塵ぐれェでガタガタ騒ぐんじゃねぇよ、昨日今日海に出た素人か手前は」
「ち、違いまさぁ!」
「よく見てくだせぇ、ありゃ人だ!」
「は?」

 言われた単語に咄嗟には反応できず、眉間に皺を寄せたまままた散乱する塵芥の数々を眺める。先程検分したとおり、二束三文にすらなりそうも無い只の屑だらけだ。浮き具には海草が絡まって、端は岩壁にやられたのか荒く削られている。樽はかろうじて荒縄同士で繋がって、水黴に黒く汚れたままぷかぷかと漂っていた。本格的に水底へ沈むのも時間の問題だろう。合間に、ゆらと浮かぶ古着すら、今にも青に埋没しそうだった。然して特徴も無い木綿の小袖だ。茶けた古着独特の袂が波に煽られて揺らめき、ついに端から暗きへ消えてゆく。

「っ、! おい!」
「ほ、ほほホラ! やっぱアレ人だ!」

 邪魔な荷が隠し、古着が被さって見えなかったのか、突如目にも鮮やかな緋色の布地が目に飛び込んできた。両手を水平に広げたその身体に添って、袖を長く誂えた女物独特の艶やかな線が浮かんでは消える。距離もあり、高低もあるこの位置からはよく見えないが、手下たちの言うとおり人には違いない様子である。女だ。しかし、生死は判らない。
 男が息を呑む合間にも、久方ぶりの水死体に腰の引けた男たちの喧騒は続いていた。

「やべぇって、遭難者じゃねェか!?」
「や、ありゃもう死んでるだろ、見ろよ、ぴくりともしねぇぞ」
「土左衛門か…、だとしたら拾ったやるのは逆に酷、って、アニキ!?何を」

 静止も最後までは耳に届かない。高く上がった水音の次には清澄な奔流が鼓膜に進入し、一つ目の視界は空とも海ともつかない青の中を漂っていた。ひと掻きする度に冷えた海水が頬から爪先までを素早く撫でてゆく。まだ外海の、陸からは遠い沖合いゆえに、視界に映る物は目的以外に何も無い。あっという間に浮き具を潜り、樽を避けて、件の人影に辿り着く。やはり、女だ。あわや沈みかけていた肢体を持ち上げ、同時に海面へと勢いよく顔を出す。
 途端に、聴覚が機能を取り戻した。聞こえてくるのは歓声と喝采だ。流石、と囃し立てる手下どもには鷹揚に手を振って答え、改めてと抱えたままの女を見る。
 腐乱は無いし、致命傷も無い。水に体温を吸われ冷え切った身体だが、息はある。長い黒髪が肩口を抱く手に藻屑のように絡まった。

「上がるぞ! 縄を寄越せ!」

 腹の底から怒鳴り上げ船上へと声をやっても、腕の中の女はぴくりとも反応しなかった。






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