旅籠、玄関すぐ。そこは茶屋を兼ねた食堂となっている。出立も入りもまだ目立たない朝は当然ながら客も奉公も居らず、異様な雰囲気を噛み締めるのは、当の本人たちと籠を束ねる女主人のみである。
暇を寄越せといった男は、そのまま表への道を塞ぐようにして遠野の前から退かない。実際、供回りのものは無言で脇を固めているのだから、行かせる気は無いのだろう。
遠野は出掛かったため息を吐息に混じらせ始末して、揶揄と嘲笑と侮蔑の言葉には、珊瑚の唇をゆる曲げて返した。
「卑しい尼に、御武家様のお望みが叶えられましょうか。屹度、御耳汚しにしかなりませぬ」
「二、三訊きてぇだけだ。余計なことは言わなくていい」
「畏まりまして」
遠野はまた笑み、見えぬ目を床へと向けて、頭も傾けた。放られた被衣を拾うべくと、手探りで床を探るが、当たらない。
場所はわかっているのだが、小芝居というのは意外に役に立つ場合があるのだ。
存外早くに舌打が響いた。被衣がいとも容易く拾い上げられ、床に這い蹲る遠野の上にまた放り投げられる。
「ありがとうございます」
「昨夜野盗が殺されてな」
返答にしては血生臭い。
遠野は被衣を被りながら、何も言わない。
「伊達軍の兵士が直々に追ってた獲物だ。態はただの盗賊だが、手を出したもんが捨て置けねぇもんばかり。だが、昨夜だ。追いついたと思ったら、全員見事に死んでやがる」
「それは、ようございました」
「ほう? 如何してそう思う」
「伊達の皆様方の、お手を煩わせずに済み…」
追討し切れるはずもない盗賊など、通常後回しになる。だが今回に限って、伊達軍の兵士達がその盗賊討伐にやって来た。理由は至極単純。伊達政宗の元に届けられるはずであった糧秣や貢物が、その盗賊に奪われたからである。
盗賊もきっと、奪った荷の正体と行く先を知っていれば手を出さなかったかもしれない。けれどそれは後の祭りで、伊達家現当主の厳命は疾く染み渡る。
死んだのだから良いではないか。
この言に、男もゆうるりと笑い返す。
「ただの仲間割れなら、俺も仏とやらを信じてやるさ。だが盗人に盗人を働いた下衆な鼠が居やがってな」
「…まあ」
「野盗は皆、頸を一掻き。それで仕舞いだ」
カツンと、足元に何かが転がった。
「喉骨に引っかかってたぜ」
ゆっくりと上がる顔。
遠野は見えぬだろう目で、しかしはっきりと目の前の男を見上げた。
「五弦琵琶か」
「ええ」
「弾いてみな」
男が半歩を退いた。腕を組み、獰猛な獣の瞳が、布に隠れた遠野をじっくりと見つめてくる。
暫くして、遠野が被衣を脱いだ。
背負っていた琵琶を取り、包みを外せば、そこに見事な紫檀の曲線が現れた。
磨き上げられた五弦五柱の半円胴に、螺鈿の細工が花を象り施されている。糸倉は曲がらず切ないほどに真っすぐに伸び、調弦の筒にも細工の手は伸びている。
隙の無い見事な一物である。粗末な身形の女とでは、あまりにも大差がありすぎる一品。
本来ならば均整の崩れたその関係も、しかし遠野が被衣をとれば問題は無くなった。
結った頭に布を巻き、質素な身形で豪奢な琵琶を抱く。手袋を外せば顕れる指は酷く華奢な銀細工のようで、僅かに漏れる碧天の陽に照り目映い。物憂げに見える光の無い目が長い睫毛と共に下を向いた。
「御耳汚しに、御容赦を」
そう言い、彼女は鼈甲の撥を構えた。深く、深く握っている。
躊躇い無く床に座して、女は朗々と弦を鳴らした。