逢瀬

びぃん、びぃんと、白い指先が徒に弦を弄んでは、ゆるやかに彷徨った。



 凭れかかる粗末な桟の元、青畳の上に、大柄な楽器が寝そべっている。磨き、丁寧になめした胴は飴色に輝き、先程張り替えた弦の調子も良さそうだ。弾く指が伝えてくる。
 音律は耳で捕らえる限り正確。後は、生憎と割れてしまった撥をどうにかしなければならない。
 鼈甲の、気に入りだったのに。
 酷く残念だった。
 は溜息一つで身を起こし、獣のような伸びをして小さく欠伸を溢した。ふぁ、と吐息が漏れる。今日も寒い日である。
 明け方近い今の刻限では、まだあまり人は起きていない。小間使いの小間使いが、遠く、水を汲み煮炊きをする音だけが、静かに響いている。暫く前から世話になっているこの旅籠にも、随分と長居をした。背に落ちた髪を払って、はゆるりと立ち上がった。一度深く呼吸をして、あたりに耳を澄ます仕草を見せる。
 乱雑に布を纏っただけの、殆ど裸身に近い身体に、今度こそきちんと小袖を被せかけた。粗末に擦り切れた、旅装を兼ねた薄汚い衣である。藤色は鼠色に近いほど日に焼け、輝きを失くし亀甲も消えかかる。整え終えれば、その見目は貧乏長屋の町娘に相違ない。頭に布を巻き被衣を備えると、もうただの旅人か、辻君。その存在はひっそりと大衆に紛れるだろう。
 帯を締めると背筋が伸びる。しなやかな筋に纏われた身体が不自由そうに帯留めを結ぶ。
 仕度を終えて、もう一度腰を下ろせば、夜はすっかりと明けていた。寝静まっていた人々が起き出したのだろう。俄かに沢山の気配が色を持ち、熱を持ち、の身にひたひたと近寄って来る。
 今日はどんな日なのだろう。
 双眸は朝日を受けて空ろに輝いている。は"外"というものを知らない。


* * * * *


「お世話になりました」
「おや、もう商売は上がりかい」
「はい。生憎撥が欠けてしまいまして」

 一度、技巧に会いに郷へ戻ります。
 そう告げるの顔を、恰幅のいい年配の女将は無遠慮にねめ回した。

「変わりのものじゃ駄目なのかい?」
「気に入りものなので…あれでなければ、指が鈍ってどうにも」
「勿体無いねぇ。五弦琵琶弾きなんて滅多にいないんだ。アンタがいなけりゃ、こっちは商売上がったりだよ」
「相済みません」

 苦笑して頭を下げるの胸の内は、透き通った水面のように、波紋の一つも広げなかった。
 旅籠としては中の上、中々な規模を構えるここは客も多いが、中途半端に耳が肥え、つまらぬ矜持もある厄介な客が多い。瞽女が布で恥を隠すと、淡々と弦を弾くの被着を含み笑いが掠めたものだ。
 しかし、定期的に弾いておくれとせがむ以外、干渉も世話も寄越さない処は、の気に入りでもあった。
 夜更けにふらりと出てゆくに、女将は気づいているのかいないのか。それでも知らぬ存ぜぬ見知らぬ振りを貫いているというならば結構。旅籠の女は中々如何して油断が出来ない。
 だがそれら全ても、今日までの話である。
 やるべき事は終えた今、一刻も早く戻らなければ。
 昨夜から、頭上を飛び回る大鴉が喧しい。帰還の催促に小賢しい影鳥を遣う辺り、寄越した相手の性根の悪さが鼻についた。
 では、と話を切り上げて表へ向う
 それは、ほぼ同時であった。

「邪魔するぜ」

 耳に傾れ込む声。静かな水面に小さな波紋が刻まれる。

「へぇ、これはこれはお武家様。朝も早くにこのような東屋へ、如何な御用でございましょう」

 流石は客商売。固まりかけた座の緊張を一気に散らし、女将は傅きながら、二、三の従者を伴いつつ現れた男に近寄ってゆく。
 の左肩を女将が押しのけ、彼女は少し唇を噛んだ。
 平伏せんばかりに応対する女将に向い、錆びたあの声は寡黙に何かを伝えているようだ。
 挨拶は終えた。従って、このまま辞するも訳は無い。は黙って背に背負った琵琶を大事そうに抱え直し、少し遠回りをして表へ向う。
 その背に、またも声。

「待ちな。手前が比丘尼の五弦弾きか」

 は止まり、しかし振り返らない。
 妙な間を気にする女将が、慌てて中を取り持った。

「へぇ、左様でございますよ、ねぇ」
「…ええ」
「名は」
「弓と申します」

 女将に名を名乗ってはいない。咄嗟に口をついて出た名を男は租借しつつ、少しに近づいた。

「この季節に、熊野詣の先導か?」
「遠く奥羽の地は、我らにおきましては未だ未開……雪深い今の時期より、少しでも遠く、深くへと、仰せつかりましたので」
「ほう、そりゃ熱心なことだな」

 言うなり、獣の一撃の如くの被衣が剥ぎ取られた。
 身を竦ませる暇も無い、翳んだ一撃。
 咄嗟に動きかけた身体を殺して、は顔を庇うようにして手で被い、三歩下がった。

「何を為されます」
「…盲か」

 履き棄てるような言葉と同じに、被衣は床へと棄てられた。
 ただならぬ気配に、女将は既に身を退かせ傍観に徹している。それもそのはず、彼女は既に男の身分を悟っていた。
 頬の傷、厳しい顔付、身体。錆びた声音に鬼の所業。

「訊きてぇことがある。暇を貰おうか、女」

 名乗った名を呼ばない男に、の唇は弧を描いた。







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