逢瀬

身を包むようだった鋭い風も止み、辺りは不可思議な重力に支配されはじめた。



 肌触りはずんと重く、耳を痛め付ける程静か。しかし、妙な浮遊感がある。
 僅かも乱れていない呼吸を一度大きく施せば、口許に巻いた布がむっと熱を持った。
 鎖帷子を伴わない戦忍の装束は粗末な黒布で構成されていて、躯に巻き付けるだけで戦線に赴く矜持は整う。冬の、北国の夜だというのに、熱い呼吸がぞんざいに宛がった仕事着に絡んで、煩い。同じように粗く布を巻き付けた、存外しとやかな指が、覆面じみた闇を引き剥がした。
途端、不可思議で大人しかった夜が暴れだす。顕になった鼻孔や唇をついて、鉄錆に似たきつく据えた血風が寄せては引きと迫り来る。布を捨てた地は赤黒く腕を広げ、朽ちるに任せるのみとなった肉塊を抱いて沈黙していた。
 その数、裕に十は越える。黒漆を重ね塗り、重厚と強固を齎す胴鎧はぬらぬらと星月明かりに瞬いている。土を踏締める微かな音が囁くと、頬に一点だけ飛沫をつけた忍が一つの亡骸の脇に屈んだ。
 既に、絶命している。断末魔の悲鳴をあげそこねた、どこか間抜けた虚ろな顔は、目立つ傷痕に囲まれて厳めしい。
 先程まで動いていた、鎧に頼らない分厚い躯と、髪をすべて後ろに流した風体は、それは見事な立ち回りを演じた。しかしそれよりも、忍が速かっただけである。
肌蹴た胸元に、菊水紋が銀糸で縫い取られた紫紺の袋筒。手探りで掴み、握れば、細く、軽い。ゆらりと立ち上がり包みを解いていた忍の耳に、遠く馬の濁足が届いた。
地面を蹴れば、もう木の上。葉は蓑に、闇は霧になり、忍は静かに夜に没する。
 暫くしてから、夜に慣れない獣の鼻先が白い靄を上げながら現れた。

「…これは」
「なんと」

 男の声。含みは嫌悪と畏怖である。

「逃げたやつらか?」
「風体は印象と大分、近しいですが…、」
「荷を改めろ」
「は!」

 淡々と、目の前の屠殺に寸分の感情を挟まず、錆びた銀色の声が命じた。忍には気付いていない。にも係わらず、腕を組んで幹に寄り掛かる気配は微塵も隙がない。見えはしない。けれど、匂い立つ気配は大柄ながら筋の美しい象りである。
 忍はただじっと、成り行きを見守っていた。
 何人かが、忍が捨て置いた死体の荷に取り付けば、途端に生き物の気配が周囲に充満する。噎せ返るような死臭に、荒い呼吸音。相反する二つのひととなり。静謐を保っていた夜の森に、焦燥が綯い交ぜとなって、混沌は深くなる。
 だがやがて、その騒ぎも収束してゆく。しかし、忍は動けない。身を融かす枝の元、男の影も動かないのだ。走り回っていたのだろう、呼吸を跳ねさせた一人の男が、忍のいる樹の幹元に近づいてきた。

「全て、喉笛を一掻きに。相当の手練でござりますな」
「構うな。野盗の十や二十、死んだ方が世の中のためってもんだ。荷は」
「…糧秣は、馬と共に。野営の差し掛かりで襲われたのでしょう……無事ですが」
「――韶雪は」
「……見当りませぬ」

 間は一瞬。
 男の気配は一度大きくざわめき―――やがて休息に萎んでは霧散した。
 そうか、と短く答え、磐のような蔭は幹から背を起こす。

「戻るぞ。政宗様を待たせるわけにはいかねぇ」
「よろしいのですか」
「目星はついてるからな」

 途惑う若い兵をつれ、気配は気配と足音は遠退いてゆく。
 そして、油断をした。
 忍が筋の強張りを一瞬和らげたその時に、激情迸る殺気が疾風となって忍び目掛けて飛んだ。月灯りに飛燕する小刀。軌跡は銀糸のように闇を切り裂く。
 しかし、忍は避けなかった。避ければ樹は離れ、枝は揺れ、葉は剥がれて闇は腕を解く。
 忍は甘んじて、油断の楔を左肩に受け入れた。
 熱く重い衝撃。鮮やかに突き立つ刃物は、肉を裂いて骨を断つ厭な音を響かせて、止まった。

「っ!? 残党か!?」

 振り仰いだ兵に、木の葉も男も応えない。

「…気にすんな。なんでもねぇさ」

 殻となった鞘を投げ捨て、驚きに身を竦める兵を捨て置いて歩む武人に、忍は怪我の痛みではなく目を細めた。







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