Night in, night ouT

きれいなひと。


 折角音も無く姿を現したと言うのに、弓は憚ることなく音を紡いでそう口にした。夜陰に紛れるようにきちりと巻いた顔当ても取り去っていたので、白い肌の中、雪消に映える椿の如く紅い唇は象った動きそのままに澱みなく発音を促す。吐息や風の音で紛れるはずも無いその声音を聞きながらも、屋敷の主は微動だにせず背を向けたままだった。
 否、動いてはいる。美しい筋の象りが容易に判る背なは緩やかに呼吸し、骨と関節を促して、腕に指に力を送る。時折高い音、そして金臭さ。端座した脇に転がる黒漆の鞘を見る限り、十中八九、刀の手入れだろう。愛刀・黒龍。五山に名高い大業物である。
 濃紺の紬を縮緬の帯で括る逞しい体躯に掛かる皺や、着崩れた具合が、より一層生身の躰を感じさせる。一度や二度しか知らないわけでは無いが、だからこそ過剰に求めるのかもしれない。持て余しかけた思考の隙を突いてか、まずはと温い溜息が先陣を切った。

「…二度と来るなと言った筈だぜ」

 低い恫喝は、身体の芯を痺れさせる響きだった。弓はゆっくりと頷く。

「ええ」
「なら」
「でもわたし、聞き分けがなくて。物覚えも悪いから、三歩歩けば忘れるわ、昔のことなんて」

 だから、いいじゃない。
 唇が漏らす笑みを指先でなるべく潰しながら、淡暗がりに沈む畳に音も無い一歩を踏み出す。
 ほぼ同時に、銀一糸が眼前を両断し、喉元にて止まった。

「次に会ったら命は無いと思え―――この台詞も忘れたんなら、身を以って思い知るか」
「殺す?」
「ああ」
「そう。でも今じゃないわ」

 笑いながら、す、と弓は躊躇いなくまた一歩を踏み込んだ。当然、突きつけられた刃の尖端は首筋に食い込み、次の瞬間には鮮血が飛沫を撒き散らすだろう。しかしその前に、鍛え上げられた鋼鉄の輝きはまた闇の中へ姿を消した。
 浅いながら、それでも垂れる一筋の紅には欠片も関心を持たないまま、弓は流れる仕草で片倉小十郎景綱の前で片膝を着いた。彫の深い端正な顔には渓谷が刻まれ、間近から覗く瞳には爪に燈る灯のように点とした炎が宿る。これは、屈辱か、嫌悪か、それとも欲情なのか。獰猛なる獣の目は滴る甘美な体液を捕らえて離さない。

「構わないでしょ」

 弓がうっそりと呟き、揺る曲げた唇と同じ動きで指先を持ち上げた。さらしを解いた掌は生身の女と同じ肌を持ち、宛がった端正な男の頬に張り付いた。そのまま、指を曲げ、爪を立てる。初めは緩く、次期に強く。弓だって忍と名乗るからには、獲物が無くたって人ぐらい簡単に殺せるのだ。しかし竜の右目と称されるこの男は、爪先に毒物を仕込むも厭わない忍の奇行を黙って受け入れている。
 それでも、ただ瞳だけは確りと抜かりなく、女の一挙手一投足、均整も艶やかな肢体の隅々までを眺めている。双眸は夜に濡れ、鼻筋の通る面影には否応無く影が溜まる、それすらも美しい。時間も、言葉も無いまま、ふたりともつくづくと眺め合った。そのまま、互いの唇は温もりを求めて自然に寄せ合わさる。躊躇うのはほんの刹那、あとは瞼を閉じる速度と同じに落ちてゆく。
 体裁も道理も後に捨てて、ただ只管に貪った。舌に噛み付き、絡め、呼吸すら飲みつくされる。持て余された無骨な手がいつの間にか女の衣を肌蹴て侵して素肌を撫ぜ、乳房を意地悪く弄び、あばらの窪みを辿って腰を這う。そうして随分荒く扱ってから、漸く少し御互いが間合いを取った。それでも、かかる呼吸は御互いの鼻先を生温く湿らせる。
 抑えて幽かではあるものの、それでも確かに息の上がる竜の右目を見て、弓は見当違いな充足感を得ていた。乱れ落ちかかる髪が一筋、男の頬にまた一つ影を加えている。彼女はくすりと笑って、それを撥ね、またゆっくりと手を宛がう。
 しかし、今度こそ精悍な武人の指が華奢で禍々しい忍の手を遮り、叩き落とした。心の弱いものならば一睨みで射殺しかねない苛烈な視線が間近から浴びせられる。

「いい加減にしろ。どんだけ巫山戯りゃ気が済むんだ」
「さあ…」
「俺を殺りに来たんだろうが。仕事をしろや、雌猫」
「あなたと寝てから考えるわ」

 くすくすと低く笑う弓は、成る程形容通りしなやかな肉食獣の動きで緩慢に片倉の衿を肌蹴させる。きれい。また同じ言葉が意図せずに吐息に交じって毀れて落ちる。矢や刀の古傷痕が随所に散る、鍛え扱かれた無駄なき肉の丘陵。それを、しんなりと湿った指先が撫でる。形は華奢なくせに、逃れて退くを赦さぬ力強さが根底に見えた。先ほど彼がそうしたように、確りとした鎖骨、分厚い胸板、あばらから腰を撫でて、臍に両手を着き圧し掛かる。流れるままにまた口付けを強請った唇はしかしあっけなくかわされた。堅牢な掌が懲りずに額を押し付ける弓の首をきつめに握る。

「殺すぞ」

 言いながら圧迫する頚部が不穏な音を立てる。笑うための酸素を全て使い切ってなお、弓は紅く濡れた唇を引き上げることをやめない。急所を担う大きな掌。ほら、こうやって簡単に殺せるのだ。なのに女を悦ばせる手練手管にだって、とても長けている。矛盾にみえて矛盾じゃない。どちらだって享楽的で、刹那的だ。一過性に過ぎないからこそ全てを掛けられる。
 もうすぐ己を屠るだろう腕に添えていた両の掌。滑らせて、頬を挟み、指先が奔る古傷の痕を辿る。項に添えて、ぐん、と力を込めて引く。今度こそ紅が描く温もりを重ねた。淡く容よい唇が噛み付き返してくるに随って、宛がわれていた拘束はまたゆっくりと解かれてゆく。
 懲りねぇ女だ、再び荒くなる息と共に耳元から雪崩れる美声。背に廻る掌の感触を楽しみながら、弓は潰れかけた喉で懲りずに笑う。

「いいじゃない、別に。わたしだって、あなたなんていつでも殺せるわ。それまでの話でしょ」
「大した口の利き様だな。試してみるか?」
「それもいいわね。でも、またいずれ」

 桃色の舌が無骨な首筋を舐め上げる。張り合うように肩口を噛まれる。楽しい。美しい男。でも所詮敵同士、赤の他人。どうせこんなもの長くは続かない。破滅と呼ぶには馴れ馴れしく、退屈しのぎでは少し足りない。けれど何よりもこの男がいい。こういう風に、血の滲みそうな葛藤を抱えながらも、最後にはただの男になる、このきれいな男がいいのだ。
 強い腕が中途半端に絡まった衣を強引に剥ぎ取りながら、もう片手は完全に晒された柔肌の上を縦横無尽に滑る。胸を揉み拉き、熟れた乳首を摘み、唇は耳に寄せた。弓も倣って、外耳を齧る。びくともしない逞しい肩。それでも苦い声は流れた。

「…忌々しいクソ女が」
「ふふ」
「尻の軽い女なんざ御免だ」
「知ってるわ」
「好かねぇからな」
「判ってる」

確認だけはゆっくりとして、あとは性急に、互いに砦として保っていた背を畳みの上に投げ出した。





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