インモラル・ヒーロー

猿飛佐助は黒装束を纏わない。



 主体性か揶揄か嘲笑か、まるで巫山戯ているとしか言いようのない派手な柄物の仕事着と、逆巻く毒々しい赤毛で真田忍隊の長を名乗る。その腕前は確かに、並みの忍が徒党を組んで強襲しても須らく返討ちに遭うのが関の山というほどだ。しかし、だからといって個を示せばいいものでは無いし、忍というものは本来闇に於いて闇に生きるのが重畳。浮世を惑わす色彩を選んだところで、決して人とは認知されないのだ。
 だがそれは決して卑下することではなく、寧ろ誇りとすべきものである。体術・武術・知恵知力、何に対しても忍は常人の遥か上をゆく。忍とは最早忌み名ではなく、人という生き物が進化した新しい総称なのだ。選ばれし民と、裏名はこうあるべきだ。故に人とは交じらない、関わらない、許さない。だのに猿飛佐助ときたら、そんな忍の誇りをいともあっさりと踏みにじって、実力を武器に、肩書きを餌に、酷く容易く昼最中にも人の世に姿を見せるのだ。
 遠野はそれが堪らなく厭だった。

 出身は同じ忍の里。しかし遠野は親兄弟全て忍という上忍血統の出であったが、猿飛佐助は里長が何処からか連れてきた汚らわしい俗世の"人間"だった。
 こんな世だ、孤児は何処にでも溢れていたが、幼い働き手は使い捨てが出来る分、どこぞの大店が割りと重宝がるのである。攫っても俗世に波紋を来たさないのは、旅芸人の一座が拾う異形の子供たちだけだ。彼らは平民よりも下層の者、扱いは畜生にも劣る。牛豚の子供一匹居なくなったところで、気に留める者が居ないのと同じである。
 当時は多くの同胞の仕損じが重なり、加えてちょうど流行り病も猛威を振るって、随分と里から忍が姿を消していた。よって後に来るだろう人手不足の為に已む無く人狩を行ったのだろう。金糸雀色の髪の娘や、体躯と眼だけがやけに大きい異形者だらけの中で、今も昔も変わらない、血よりも紅い髪を垂らし、泥と垢塗れの躰を引き摺って歩いてきたのを覚えている。みすぼらしい体躯は枯れ掛けの柳より頼りなくて、どうせすぐ死ぬのだろうとその髪色以外は然程興味を引かず、その後すぐに忘れてしまった。次期里長候補の推薦を貰うべくと自身も過酷な修行の中で、余所者に感けている暇など無かったからだ。
 足と肋骨を二度折り、腕を一本失くしかけてやっと上忍と名乗るに相応しくなった頃、気づけば四人居た兄姉は全員死んでいた。悲しみはあったが、それよりも行く手を阻む障害が消えたことが嬉しかった。何時だって高く険しい障壁として聳えていた兄姉たち。彼らがいなくなれば、必然的に里で一番の手練は自分ということになる。純粋に、その事実を喜んでいた。
 記憶に埋没した筈の、あの赤毛が眼に飛び込んでくるまでは。



「―――遠野姉さん」

 夜風に乗せて声が届き、闇に蕩けさせていた身がはっと強張った。
 主である真田幸村が甲斐の虎に目通るための登城、その警護に主だった忍が駆り出されているのだ。隊内の実力では上位に位置する遠野の配置は主周りに程近く、中々重要な箇所である。それでも、この声の主のように、天井裏に潜む許しは得られないのだ。
 聞きたくもない声で、呼んで欲しくもない名を呼ぶ。意図的過ぎて反吐が出た。当然、返事はしない。
 けれど影はしつこく、昏きに紛れなどしない装束のままするりと隣に降り立った。軽い身のこなしで、こちらを覗きこむ気配がする。

「姉さん、何? 寝てるの? うっそぉ怠慢んん、俺様衝撃だなぁ、あの姉さんがねぇ」
「…長」
「あらら、起こしちゃいました?」

 戯言に堪えかねて溜息を吐けば、途端カラカラと勝利に笑う小憎らしい男。真田忍隊の長、つまり、里一番の手練である。
 忌々しさを極力殺して、今や階級も実力も上の男を振り仰ぐ。

「…ここはわたしの持ち回りでござります。何か問題でも?」
「いやぁ、旦那は今お館様と軍議中でねぇ、俺様爪弾きを喰っちゃったのよ。で、暇だからどうせなら姉さんの顔でも拝もうかなーって思ってさ」
「お言葉ながら、長がそのようでは下の者に示しがつきませぬ。早々にお戻り下さい」
「つれない事で。でもそーゆーとこが好き」

 昔からね、という声の次に、特異の柄衣装が目端を掠って隣に座る。酷い嫌悪と憎悪に胸の内がざわつくが、忍が感情を表すなど無粋極まりない。吐き出したい苦い溜息を喉元に押し留め、遠野はきっちりと巻いた顔隠しから覗く目元に力を込めた。

「いーい夜だねぇ、月も綺麗で、姉さんも美人で」

 くだらない。
 遠野は答える代わりに、腰を落ち着けていた瓦屋根から立ち上がった。

「長がこちらを見張られるのならば、わたしは別を」

 舜身によって融けかけた腕を、無骨な掌が遮った。

「…御放し下さい」
「えー、いいじゃない、もうちょっと一緒に居ようよ」
「お戯れも程々に為さりませ。このような体たらく、真田忍隊長の名が泣きまする」
「そんなモンにこだわってんのは姉さんだけだよ」

 静かな怒りに震える声は、艶やかな嘲笑に迎え撃たれた。かっとなり咄嗟に怒鳴りかけた唇を強く噛み締めて堪える。
 そんなもの。そんなものと片付けられるのか。己がどれほど望んでも手に入れられない位置にいる、紛れも無いその忍が、たかがと。
 本来の役目を封じられた口の代わりと、目がものを言ったのかもしれない。交叉する一瞬の視線の後、猿飛佐助は今度こそ肩を震わせて笑った。

「…何が可笑しい」
「アンタの全部だよ。下らない妄執に取り憑かれて、みっともない」

 語尾が終わる前に利き腕が動いた。遠野の獲物は鍛鉄の飛苦無だ。扱い辛い小型鉄器を敢て選び、苦節の末に己の手足とした今では影でさえ縫いとめるかというほどの精度を誇る。だがそれでも、この成り上がり者には届かない。
 鋼鉄が焼き絞めた瓦に突き立つ高い音。跳躍はせど後退はしない男は月を背にまだ笑っている。悲しいよ、と声がした。

「姉さん、弱くなったよね。里に居た頃俺はアンタが目標だったのにさ」
「黙れ!」
「ああ、違うか。俺が、強くなったんだ。悔しいでしょ、悔しいよね。俺なんかにいい様にあしらわれて、欲しかったモノは横取りされて」
「黙れと言っている!」
「可哀相な姉さん。遅いよ」

 ごそりと人間味の落ちた声が響いて、投げ出されるように空を掻いていた忍頭の腕が突如大蛇へと変わった。遠野は咄嗟に身を反らすが、従える忍の誰よりも優れているからこそ長と名乗るを許されるのだ。本気のその業を交わせるわけなど無い。あっけなく捕まった二の腕が引かれ、嘲笑する男の腕に巻かれて拘束される。

「やめっ、離せっ!」
「今の俺は、アンタを好きに出来るんだ」

 かつては枯れ木にも劣っていた子供の手足は逞しい男の腕になり、暴れる女の力などものともしない。頼り無かった背は伸びて、吹けば飛びそうな体躯は分厚い胸板へと変貌した。無遠慮にまろみを帯びた肢体を這い回る息遣いには獣じみた欲望だけが乗る、なによりもその事実を見せ付けられるのが堪らなく厭なのだ。
 それを、この男はわかっている。わかっているのだ。
 悔しい、悔しい、悔しい。
 こんな男に、こんな、

「化け物が…っ!」

 月光の中、逆巻く赤毛は禍々しい炎のようだ。こんなもの有り得ない、こんなもの認めない。こんな醜い、こんな、下賎な。
 佐助は何も言わず、ただ反り返る白い喉元に唇を寄せたまま動きを止めた。
 視界を退く色に埋められたまま、それでも遠野は必死に言葉を接ぐ。

「芸座に売られるが関の山の忌み児が、わたしを組み敷いて満足か? 業で勝るを見せ付けて、欲を擦り付けて優位に立ったか? とんだ虚像だよ、わたしはお前に生きてるだけで勝ってるんだ。……なぁ、知ってるんだぞ」

 少しも可笑しくない筈なのに、冷たい石の屋根を背に、大きな月と異形を前に、横臥した遠野は息せき切って高く笑う。

「里長はお前を攫ったんじゃない、買ったんだよ。身は軽くて口答えも知らないから、はした金でも買い取ってくれとわたしの父に泣きついたんだ! お前は畜生にだって望んで捨てられる化け物さ!!」
「そうだよ」

 戦慄く唇を猛禽に似た指がなぞり、そのまま、鉤爪の切っ先は浅く頬布を裂いた。
 瞠目する遠野の視線を見下ろす男の目は紅。月明かりを背にしているくせに、草叢に潜むけだもの差ながらに光るのだ。

「でも、金になった。これほど親孝行なことってないだろ?」
「お、前」
「ねえ、姉さん。信じてくれないだろうけど、俺は姉さんがほんとに好きなんだ。初めて見た時からちっとも変わらない、その馬鹿げた狂想が堪らなく好きなんだよ。好きで好きで堪らないから、ぐちゃぐちゃに踏み潰したてやりたくなる。長になりたい? なら俺は一生姉さんの前から退いてあげない。…真田の旦那の傍に居たい? なら俺はあの人の前であんたを抱いて、中指立てて哂ってやる」

 遠野が抵抗と拒絶を搾り出す前に、佐助は時を止めていた躰を動かして猛獣の如く白い喉元に噛み付いた。性急に緩慢に、暴かれてゆく黒衣の下は白。筋と骨の凹凸を湛える震えた獲物の女である。忍は人間ではない、畜生でもない。人の心を持たず、解さず、俗世を卑下し、主に飼われ、繰り返し繰り返し、支給された画一の誇りを身に着ける、それでも元は人であったもの。
 だから猿飛佐助は黒装束を纏わない。
 その代わりに、彼は誰よりも深い闇を着るのだ。






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