God
     bless
           you ! 

 その言葉を捉えた瞬間に、脳が理解するという行為を放棄した。聞いてしまった事実もなかったことにしたい。このまま回れ右をして、逃げればいいのだ。けれど、ショックのあまりに弛緩した腕から鞄がずり落ち、ドサッ!と派手な音を立てて床に着地する。三日三晩丹精込めて作った可愛いわたしのマイバック。見捨てて逃げられるほど、物への愛着は薄いほうじゃない。寧ろマリアナ海溝よりずっとずっと深いのだ。
 よって、わたしは最後の手段、身体全体を使っての抵抗に打って出た。
「いい、いやだいやだ! ぜ、絶対、ぜぜ絶対絶対、いや!」
 白地に淡くスイートピーを染め抜いた古着のワンピースを振り乱し、ぶんぶんと頭を振って、これでもかと絶叫する。今日のテーマは【古き良き時代のサンリヲ、若しくはベコちゃんの私服】。しかし、現実は二大スウィート企業ほど甘く無い。猿飛佐助氏は欠片も怯む様子を見せず、これでもかという拒絶を綺麗に黙殺する。いつも人を惹きつける軽快な唇が完璧な三日月を描き、次の瞬間には聞きたくも無い具体的要素を付け加えてきた。
「でね、まずは大まかな二組に分かれるんだ。一つは参謀部隊。物資補給とか現況把握とか敵情視察とか作戦指揮とか、まぁそんなところかな。もう一つは実戦部隊。当然ちゃんは、今も言ったけど実戦部隊のほうね」
 き、聞いちゃいねぇ。
 猿飛佐助がホワイトボードに不思議な図を描くたびに、キュッキュッとマジックの擦れる高い音が上がる。畳一畳ほどの大判な白板も今や彼の手によりほぼ黒く塗りつぶされつつあった。それに比例し、わたしの顔もどんどん青黒く変色してゆく。
「ま、一口に実戦部隊って言っても、ウチの規模が規模だからね。多寡はまたおいおい俺が決めるけど、大体七、八班くらいに分けて敵に備えて貰うつもり。本陣はあくまで死守しなきゃならないから、勿論此処にも迎撃用に何人か置いておくよ。局所集中しててんてこ舞いになってちゃ、元も子もないからね」
 猿飛佐助の言い方は何処か時代錯誤で、その声みたいにダイレクトには意味が伝わってこない。それでもますます尋常じゃないことを示唆しているくらいは判り、わたしは鰻上りになる悲壮感に顔を歪めたまま、じっと続きを待ってみる。
「たとえば迎撃班を一斑として、二班以降は進撃専門。これが一番大事だね。何時の時代も攻撃は最大の防御、っていうし」
「…つまり…?」
 ゴクリ、といやに派手な唾を飲み込む音。猿飛佐助がニコっと微笑んだ。
「大学構内の指定箇所、獲物片手に練り歩いてもらうってこと」
「………も、もも、もしかし…なくても…わたし…?」
「当然」
 青年は笑みながら自慢の紅い髪を一梳かしして、ホワイトボードに最後の円を描き足した。
ちゃんは二班。学生支援課前付近担当の精鋭部隊だよ」
 オギャー!
 ひどい、最初に聞いたときよりも酷すぎる!
「オギャーって。仕方ないでしょ、ちゃん昨日休んでたんだし。このご時世、欠席は棄権と同義だよ」
「で、でででででも、でもー! いやだやだやだ絶対やだ! そそ、そ、そんなの、そんなの恥ずかしくて死んじゃうよ!」
 わたしは何とかしてこの苦痛を判って貰うべく、新調したばかりの茶短靴で一生懸命地団駄を踏んでいた。先細りになった繊細な設えで無茶を推す分、全身全霊での抵抗を現しているのだが、目の前の男子には毛ほどの同情心すら芽生えないらしい。寧ろ意外すぎて呆れる、といったような表情を向けてきやがる。
「何言ってんの。被服科の子なんだからこんなの日常でしょ。いいじゃん別に、減るもんじゃあるまいし」
「わわ、わたしは作るのが好きなだけであって、これ断じてそんな浮かれた即席文化とはちが」
「はいはい、一緒です一緒。ていうか机からは降りようね。なんで上がってんの」
 ほらほら、と手際の良いお母さんのような口調で、手製の銀環を嵌めた両掌をパンパンと打ち合って促す。何故上がっているかなんて決まってる、衝撃のあまりに、だ!
 わたしはしかし、まだ降りるに降りられない。此処で降りればそれこそ降参と同義だ。冗談ではない、こんな重責と羞恥、耐えるに耐えられるわけが無い。
「安心しなって。さっきも言ったけど、何も一人でやれってわけじゃ無いからさ。もちろん俺だってちゃんとやりますよ? 意向は全部制作サイドにおまかせしたから、どんなキワモノがくるかわかんないし」
「あ、あっ、わたしもそれ、制作サイドになりたい!」
「駄目」
「即答!」
「言ったでしょ、アンタは精鋭部隊なの。もう専用に作っちゃってるから変更なんて今更無理」
「…へ」
 あんまりにもさらりと宣うので思わず流しそうになってしまったが、いま、なんと仰いましたか。
 唖然としたまま机の上で膝を抱えた私の目を見て、猿飛佐助は今度こそ、この笑みで一体何人の婦女子を垂らしこんだのかという必殺技を披露した。
ちゃんは、メイド服」



 そもそもからして、先週くらいからくしゃみが止まらなかったのが原因だったのだ。
 学園祭も近いし、展示発表会も近いし、今の内になるべく早く休んで体調を万全に戻そうかと思い、さして重要でも無い曜日を選んで休んだのが仇となった。わたしがぬくぬくと一人お布団水泳を楽しんでいる間に、クラスミーティングはこれ幸い暗黒会議を展開し、舌戦に於いては右に出るもの無し・猿飛佐助を元凶として、まるで罰ゲームのような学園祭の詳細は決定されたのだ。誰か反対しろよオイ、とは、その場に居なかった空気が読めていないわたしならではの発言なのだろうか。いや絶対違う、断じて違う! はず!
 催し物としては至って普通、バザーだ。しかしこの時代、ただのんびりと品物を収集・配置・販売した処で利益は上げられない。一生懸命の呼び込み効果もたかが知れているだろう。
 世はVMDがものを言う時代、そして商いはいつでもアグレッシブな者が勝つ!とは、猿飛佐助筆頭の急進派の弁である。
 そんな持論に則り、売り子はそれぞれに品物を持ち、構内を練り歩いて営業に出るのがいいと言うのだ。
 しかも、それだけでは目立たない。コスプレをしよう。これならばいやでもなんでも目立つ。
 驚くほど理に適ったようで単純一直線な思考である。
 わたし一人が反対した処で、一体どれ程の効果があるだろう。大衆を前にして愚民一人の暴動など、偏に風の前の塵に同じである。そもそもクラスのみんなの前で発言できるほど偉くも器用でもない。
 こりゃ逃げるしかない、と思ったけれど、学園祭の次に迫る展示会がその邪魔をした。服作りなんてそれは力仕事なのだ。ましてや満足な道具すらない家での作業なんて限界がある。
 コソコソと登校してあとは作業室に引きこもるはずが、なんだかんだで毎回捕まり、採寸だの仮縫いだのに絶叫を上げながら参加させられ、それはジャストフィットな衣裳が出来上がる。くそぅ!
 こうなればいっそ当日風邪でも引かないかと思い、手っ取り早く早朝の水浴びや乾布摩擦も決行したけれど(勿論室内で!)、逆にとっても健康になって肌荒れもよくなった。くそぅ!!
あの一日、あの一日を休んだのが間違いだった。アレでわたしの中の風邪菌が全面撤退してしまったのだ。
ああ、唯一のとりえ、ド健康を憎む日がくるなんて!
 そうして当日はやってくる。来なくていいのにやって来る。
 天気は晴朗、紅葉も高揚して、秋にしては穏やかなとても温かい日和である。しかしこんな日、くそくらえだ。
 すーはーすーはーと深呼吸し続けること小一時間、漸く液状だった心をところてんくらいに固めて、愛用の携帯電話をそっと取り出した。カチリ、と折りたたんであったそれを開いて、震える指が輝く液晶画面に、今は見るだけでも恥ずかしいその人の名前を呼び出す。
 通話ボタンを押すまでに二千回くらい世界崩壊を祈り、恐る恐ると耳を押し付けた。この時間はまるっきり仕事中なので出てくれないかもしれないが、それはそれで構わない。ようは裏づけさえ取れればいいのだ――相手が動けない、忙しい、此処には来れないという。
 そんな私の願いも空しく、単調な電子音は五回目のコール後にあっさりと終わりを告げた。
『―――どうした』
 いつもと同じの、変わらない、低く錆びた声。わたしの大好きな声だ。
「は、え、あの、きゃ、片倉小十郎さんでしょうかっ」
『当たり前だろ』
 全くの抑揚もなく突っ込まれたが、当然である。時代の最先端をゆく小型通信移動機はこちらの指示を受取り損なうなどという愚挙は冒さない。愚かなるはわたしだ。緊張のあまり噛んでしまった。駄目だもうひとまず死にたい。恥死だ!
『珍しいな、お前がこんな時間に電話なんぞ寄越すなんて。何か急用か?』
「あう、あ、え、えええっとですね…! か、片倉さんは今日、何かご用事はおありでしょうかっ?」
『そりゃま、いつもどおり仕事だな。…ああでも、今日は少し長引くかも知れねェ』
 いつもどおり仕事――と、いうことは、少なくとも夜までは身体が空かないということである。しかもちょっと長引く、だと。即ちそれは午前様コースも有りうる。
 よっしゃ! と思わず拳で天を衝く。片倉さんは夜まで動けない!
「そうですかっ、そ、それならいいんです! スイマセン御忙しい時間に! じゃあお仕事頑張ってください!」
『は? おい、ちょ』
 パタン、と携帯を閉じ、まるで今の言葉が消えてしまわないように大慌てで携帯をポケットに仕舞った。ふーっと閉じ込めていた息が一気に開放され、少しだけ失いかけていた人としての尊厳やら何やらが戻ってくる。あとは、己のプライドを如何にして明日に持ち込むかだけである。
 つまりそれ即ち、生き死にの問題だ。
「何、彼氏?」
「煩いっ!」
 元凶がケラケラ笑ながら覗き込んできた。相変わらず気配を感じさせない瀟洒な身のこなしは、いまや完璧な燕尾服に収められている。中世のステュワードはそんなご立派な礼服なんか身につけてなかったよ! と叫んでやりたかったが、フィクション性を抜きにしてもその装いはとても素敵だ。まっさらな陽の光に映える純白のワイシャツとベストを、夜が降りたような黒衣がひっそりと閉じ込めている。いっそ兇悪なまでのコントラストは今回の悪巧みに乗ったクラス女子の視線を見事に釘付けにしているのだが、それはなにも彼一人のせいではない。
「なんだァ、。愛しの小十郎はお前の勇姿を身に来ちゃ呉れないってか?」
「つれねー彼氏だな! そんな奴とっとと振っちまえ、その姿見せつけたあとでよ!」
 ゲラゲラ笑う長身の男二人。彼らもまた、其々が特徴の強い衣装に身を改めて人目を集めていた。誰もが羨む見た目の割に、中身は最悪の連中である。無視するに限ると思い、助けを求めて周りを見回せど、目がハートになった女の子や、ちょんまげ姿で好き勝手騒ぐ男子の姿しか見当たらず、再び無駄に絶望を味わう。わたしががっくりと肩を下ろせば、ほぼ黒といって差し支えない濃紺のスカートがひらひらと揺れた。トーンを落としがちな淡白色の前掛けに、胸の下まで伸ばした髪は地味なリボンで結わえられてある。袖ぐりの銀釦と踵の低い黒い靴と併せて、そのせめてもの装飾ですら、何処をどうとっても日本古来には無い服装である。
「あいつも莫迦だな。折角お前がこんなに張り切ってるってのによ」
「ははは、張り切ってなんか無い…! は、恥ずかしい、やめてお願い恥ずかしい。穴があったら入りたい。いっそそのままコンクリートでも流し込んで墓標立てて欲しい!」
「じゃ、"此処にメイド眠る"って刻んでやるよ」
「最低!」
「んだよ、もっと気楽にやれや。たかがコスプレだろ、コスプレ。売るほうも楽しく、買うほうも楽しく! これが客商売のモットーつーモンだよ!」
「おっ、鬼の旦那いいこと言うねー。似合ってるよ、その公達姿」
 猿飛佐助が囃し立てれば、長宗我部元親は上機嫌にふんぞり返る。それをわたしがウーウー唸りながらじっとりと眺めていれば、残るもう一人、マトリックスさながらの司祭に化けた伊達政宗が、これでもかとクツクツ笑った。
「g'd up from the feet up, マジで馬子にも衣装、だなァ、
 悪意剥き出しの視線が項垂れるわたしの上から下までをつくづくと眺め、それはそれは悪いことしか考えてなさそうな、なんとも言えない微笑を浮かべる。途端、わたしはウッと詰まった。そうだ、あのなんちゃって平安貴公子は兎も角、こいつはマジ半端なく超やべぇ。
「ま、まーくん…」
「次それで呼んだら今すぐアイツに電話してやる」
「ごごごめん! 伊達くん!」
 何とか穏便に、と思うわたしの思惑は早々に撃沈。地の底から響く声と劣悪な視線に、すぐさま背筋を正して訂正する。昔はまだ可愛かったやんちゃ坊主は、今や傲岸不遜にわたしを見下ろし、「ま、いいか」と鷹揚に頷くのだ。時間とは残酷なものである。
 いやしかし、それは兎も角、目下の問題は彼と彼の兄貴分の密接な関係性にある。超!絶!お金持ち!の伊達政宗と、戦国時代くらいから続いている(らしい)その名家に、これまたずーっと付き従っているお家の跡取り・片倉さんは、この電脳化時代に於いて0と1では表しきれない深ァい関係、なのだそうだ。詳しい事はあんまりよく知らないが、この伊達どぐされやろう政宗は色んな意味で兄代わり親代わりの片倉さんを好きにできる立場にある。よって、余計なことを吹き込むのだって朝飯前なのだ!
 そもそも、この鬼畜に骨の髄まで苛められるのにほとほと疲れ果て、誰にも悟られないようひっそりとこの大学に進学したはずなのに、現状は見ての通り横ばいを続けている。入学初日の輝かしくも新しい未来に対するわくわく感は、玄関のドアを開けたと同時に潰えたのだ。
 あの、途方も無い絶望感、そういえば今とよく似ている。
 わたしの葛藤と後悔とだいぶマジな殺意などの暗黒感情を見抜いたのか、伊達政宗はふと片眉を上げ、それからすぐまた静かに笑う。
「安心しな、俺ァあいつにわざわざ教えるなんて親切な真似、してねーからよ」
「し、してたらわたしは全力で伊達君を呪ってたよ…!」
「Oh, It's a terrible!」
 ケタケタと笑いながら整えた髪を掻き揚げる、その仕草にすら僅かに黄色い歓声が上がる。みんな、しっかりしろ!此処に居るのは司祭の皮を被った退治されるべき人間だ!
 そんなオーディエンスも何のその、生まれたときからの王様は生まれたときからの貧民の前で、それは盛大な溜息をお吐き遊ばし、深遠なる黒衣に包まれた両肩を一つ優雅に跳ねさせた。
「残念だ、端からお前がこうだと知ってりゃ、ネタにして脅して散々遊んでやったのによ。惜しいことしたなァ」
「どっ、な、え、わ、わたしで? なんで、どうして、どうやって!」
「ま、一週間もありゃ、この俺好みに立派に調教してやれ」
「うわぁあああ死ねぇぇええ!」
 腕力では敵わないことは厭と言うほど知っているので、せめて己の身を守るべく跳び退りながら、最後の砦、鼓膜を守る。余計な事は断じて聞くまい、させまい、近寄るまい!
 ふしゃー!と毛を逆立てるわたしの横で、ふと、猿飛佐助が握る連絡用携帯が軽快なメロディを奏でた。ぱかっと開き、カチカチと操作する動作を見る限り、どうやらメールのようである。画面を見つめていた淡白な視線は、さっと横凪ぎになったのち、淡く微笑を象る。
「へえ、偵察部隊からの報告だよ。ウチの他にもコスプレで攻める無謀な連中が居るみたい」
「ほー」
「ああ、でもごめん、楽勝だわ。メイド、着物、ナース、チャイナ服…、一通り用意したみたいだけど、原色ケバケバ全部ミニ丈。品が無いねぇ、戦わずして俺らの勝ちだよ」
 ハン、と鼻を鳴らしての余裕の笑み。切れ長の眸には暗い炎が宿っている。
 そういえば、今時流行りの秋葉系メイド服は絶対却下と気炎を巻き上げていたのも彼だった。メイド服というのは、あくまでも労働者のための制服でありながらも、女性として相応しい見た目の美しさを追求した究極の支給服であり、ドレスなのである。それは決して大衆に媚びたり、馴染んだりしてしまってはいけないものなのだ、と。
 今の彼の瞳には、あの時白板の前で見せた焔と同じものが宿っている。
「じゃ、作戦通りにね。鬼と竜の旦那は相当集客力があるから二人一組で好き勝手に行動してオッケー。ちゃんは俺と一緒ね。二人で全力を尽くしましょ」
「う、うあぁ…」
「ま、諦めな。恨むならお前の親を恨んどけって」
「そうそう、あとあの薄情な朴念仁をよ」
 ゲラゲラと笑い続けるのんきな男二人を、もう睨む気力すらない。しかし、そうこうしている内に、校内放送による明るい曲がわんさと鳴り響いた。学園祭始まりの合図、つまり、戦いの狼煙だ。
「さぁて、売って売って売りまくるよ。学園祭最優秀部門&売り上げの座は俺らのモンだ!」
「え、なにソレ、そんなの狙」
 いいかけたわたしの言葉は、クラス中のみんなが上げた歓声によりかき消された。国民的人気アニメのキャラクターも、十二単の女子も、古典的中華服の男子も、みんながノリノリで担当の品物を抱えて飛び出してゆく。誰もこのコスプレを恥ずかしがって居ないどころか、精一杯楽しんでいるようだ。裏方に徹する参謀部隊の連中もみんなして旧日本軍の軍服に身を包み、真面目な顔で今日という日に臨んでいる。
 古式ゆかしいメイドになってしまったわたしは、殆ど泣きながら上機嫌で前を行く燕尾服の広い背を追いかけた。商品は栄養科のみんながつくったお菓子の山々。これまたお約束! といったようなバスケットに詰め込んで、一つ一つを売りさばくのだ、今畜生!
 戦場を見回すと、既に彼方此方で戦いは始まっている。元気な呼び込みの声が四方八方から飛び、派手なパフォーマンスも次々に展開されていた。それでも、わたしたちの姿を目に止めると、誰もが皆唖然として動きを止めてしまう。
 わたしは極力頭を下に下げ、視線の網から逃れようと躍起になっていた。うう、見られてる、莫迦にされている、笑われている!
 本当に本当に、片倉さんが来なくて良かった!
 他の誰でも無い、こんな情けない姿をあの人だけには見られたくない!
「はい、どうもありがとうございます。いってらっしゃいませ、お嬢様」
「お、おおお、お、お嬢様?」
 ソッコーで目がハートの客を捕まえて、いや、捕まえられて? わたしのバスケットからカップケーキやクッキーやらを売った猿飛佐助が、上機嫌で去り行く女子たちに笑顔でそう告げた。握り締めた硬貨を用意していた巾着に仕舞いながら、とっとと表情を引き締める彼はこちらを見もせずにいう。
「そ、役作り。こうしたほうが本物の執事っぽくて、話題性とテンションが勝手に上がってくれるでしょ。別にマニュアルは無いけど、みんな装備に合わせて巧い事やってくれてるよー」
 あー、でも、と彼は腕を組み、考え込むように続ける。い、厭な予感。
 案の定、思いつきに閃いた瞳が悠々とわたしを見た。
ちゃんには、ちゃんと言って欲しいなあ」
「な、なんて……?」
「ホラ、お約束のがあるでしょ。アレ」
「…あれ?」
「"お帰りなさいませ、ご主人様"」
「おお、おっ、ごっ!?」
「これ、ちゃんが真顔で言ったら男はみんなメロメロだよ」
「めっ…」
 言うだけ言っていたずらっぽくウインクした猿飛佐助は、さっさと前を向いて新しい客を捕まえに行ってしまった。
 あうあうあ、と、無意味な言葉が漏れていた口も、今は完全に力を失って垂れる。
 もう、いい。もう、何も、考えまい。
 わたしは服が好きだが、それはあくまで作るという行為だけであって、自己満足なのだ。決して人様のお目を汚すためにあるものじゃないし、その点には普段からだって気をつけているつもりだ。なのに、それが今にしてこの暴挙。自分が自分で最低だ。
 猿飛佐助はいい。あと、あの二人だって。人見知りなんて知らない単語のように、いつも自信満々に振舞うことが出来る。自信のある人は素敵だと思う。その分能力もあって、努力もしている証だから。
 でもわたしは違う。わたしは誰よりも人と自分の距離を計る事に苦心している。人には簡単で朝飯前のことですら、わたしにとっては海であり山であり、谷なのだ。コスプレだってそう。注目されるための仮装なんて、もう、拷問。
 そのわたしが、メイド服で、メイドで、ご主人様に、ご主人様って――――駄目だもう舌噛んで死のう。
 そのときだった。猿飛佐助があろうことか興味津々に此方を見つめていた男子生徒諸君に声をかけ、ずいとわたしの両肩を押しだした。途端に背の高い集団に四方を囲まれて、逃げ場を失う。耳元で、ホラ、と促す妖しい声。
 わたしはあうあうあ、とさっきまで死に絶えていた唇をどうにか蘇生させ、長い空白を頂いて、やっと声を絞り出した。
「え、あ、お、おか…、おかえ、……い、いらっしゃいませ…」
 そこからはあまりのことに意識が飛び、よく覚えていない。ただ、手元には二千円分の金銭と、頭上には猿飛佐助の溜息がある。
「駄目じゃん、ちゃんと言ってよ」
「で、で、できない…ごめん……」
「あっそ。んじゃ、しゃーないね」
 ズキ、と胸が痛んだ。
 言葉は軽快なのに、だからこそ根底に軽蔑が見えた気がした。
 残念、つまらない、役立たず。
 暗に、その言葉が聞こえてくるようだ。
 わたしは益々泣きそうになってきた。
 誰かに期待されることも、期待にこたえられなくて失望されることも沢山だから、だからわたしは人前に出る事が厭なのに。好きなことを好きなだけ一人きりでやって、それで満足なのに。
 だから、服が好きなのに。
 お菓子の入ったバスケットを抱えて俯いて歩きつつ、取り留めなくそんなことを考えていたら、そのうち、なんだかだんだんと腹が立ってきた。たかが一日休んだだけじゃない。なのにこの仕打ち? そうだ、よく考えたらわたしは別に悪くもなんともない。よく判らないことに人を巻き込んでおいて、勝手に失望なんかしないで欲しい。情けないし恥ずかしいし切ないし悔しいし、もう死にそう。
 なによ、勝手なことばっかり。
 そんなに見たいなら見せてやる、言ってやる! ドン引きしたって知らないからね!
「あ、ちゃんゴメン、本陣から電話だわ。ちょっと一旦行って来るね。すぐ戻るから此処に居て」
 そういって猿飛佐助は踵を返し、耳に携帯機を当てながら忙しなく往来を走ってゆく。燕尾服の裾が優雅に翻るたびに、見惚れる女の子たち。驚く男の子たち。その視線が次に動いてみるのは、一人取り残された異質な格好のわたし。
 自暴自棄になって、わたしはきっちりと顔を上げ、キッと睨みつけるようにして前を見ていた。さぁ、どっからでもかかって来い、わたしの本気を見せてやる!
 ―――こうやっていつも虚勢を張る。それを、いつだって、呆れながら赦してくれるのが、あの人。
 駄目なわたしを、駄目だなって、認めてくれる、人。
「おい」
 突然、背後から肩に手が触れた。客だ。
 わたしは一度大きく息を吸い込み、弾かれるような勢いで振り向いた。翻りながら、殆ど怒鳴るような声で言う。
「お帰りなさいませご主人様ッ!!」 
 朗々と響く声。集まる視線。漂う香ばしい香り。構内の何処かから流れる軽やかなメロディ。唖然とする、高い位置にある、片倉小十郎さんの顔。
 ……………片倉さん?
「…ああ、おう、ただいま」
 腑には落ちない侭も、案外に流されやすいまま、ツーとカーの決まりきった相槌を打つ。わたしを見るその普段は鋭い眼差しも、低い燻し銀の声音も、さっき仕事で午前様コースだと自ら宣言したはずの、いまこの世で一番この姿を見られたくない片倉さんである。
 脳が現実に追いつくまでの、たっぷり十秒の硬直の後、その場で五十センチは飛び上がってあとずさる。
「ふんぎゃぁああっ!」
「うぉっ!?」
「な、ななな、なっ何ですか、何なんですか!? ううう嘘つき! だ、だま、だだ騙したのね!」
「お、おい、落ち着け、何をだ」
 一先ず武器だ、武器! 手近にあるのはお菓子の山、山。その中でも一番頑丈そうな色のブラウニーを取り出して、へにゃへにゃと振り回す。
「し、しし仕事だって言ってたのに! ししし信じたのに! ご、ごしゅじんさまだなんて、ま、まだ早いものっ! あなたが嘘つきじゃないならこの世から詐欺罪なんか消えてなくなるわ! あわよくば偽者ね! くそう、しょ、しょ、正体を現せ!」
 無我夢中でブラウニーを振り回すへっぴり腰の旧式メイド。
 それに対し、全く相手の意図が分からず当惑するダークスーツの片倉小十郎。
 彼はそのまま、わたしを宥めるように両手を上げ、決まりが悪そうに静かな声をだす。
「いや……、今日が学園祭だったことを思い出して、な」
 片倉さんは少し明後日の方向を見ながら呟く。
「だだだ、だから何で来るんですかっ、仕事があるのにっ!」
「いや、だから、そういう電話じゃなかったのか?」
「へ」
「学園祭に来て欲しいって電話だと思ったンだが」
「……え」
「だから、まぁ、来てみた」
 あんまり長居はしてやれねぇが、と渋い声が後ろめたく呟く。
 言われて初めてわたしはパニックに掻き回される頭を必死に動かし、片倉さんへの電話について思い出してみた。
 ――片倉さんは今日、何かご用事はおありでしょうか?
 ――そうですか、それならいいんです。お仕事頑張ってください!
「……ほんとう」
 仕事さぼって会いに来て欲しいって事を、どうしても言えない初心な女の子みたいな言葉だ。
 そう考えたら、頭に血がどんどん昇ってきた。なんて恥ずかしい電話だったんだろう! もしも故意にそんな電話をかけたならば、もごもご噛みまくった挙句にガチャ切りしてビルの屋上で叫びまくるくらいの羞恥心が襲ってくる。
 ななな、なんて電話を!
 わたしは! なんという! 恥ずかしい! 電話を!
「違ったか? 俺の勘違いか?」
「いえ! や、あの、その……、えっと、そ、そういう、電話、です……」
 ばつの悪そうな顔をする片倉さんを見て、わたしは思わず咄嗟にそう返した。返してから、悟った。まずい。顔が蛸のようだ。しかもゆで上がり。ほっかほかの出来たてのアッツアツ!
 わたしの返答に、そうか、と呟いて、片倉さんは淡く微笑んだ。
 ブラウニーが手から落ちる。
 普段、余り見せないはずのその笑顔に、わたしはもうこのまま脱兎の如く遁走したくなる。所詮、この世で一番小さい心臓の持ち主、わたし。こんな事態、あと一回経験したら確実におっちぬ自信がある。もう、嬉しいのか、恥ずかしいのか、泣きそうなのか、幸せなのか、何が何だかもう解らなくなってしまっていた。
「何かの制服か? それ。いいじゃねェか。よく似合ってる」

 ―――だから、ここで思わず泣いてしまったのは、仕方の無いことだと思うのだ。

 突然大号泣をぶちかますわたしに心底動揺し、いつもは静謐そのものの彼が慌てふためいて慰めてくれた。違うんです、これは風に乗ってやきそば屋の玉葱エキスが飛んできたんです、と必死に謝り倒すみっともないわたしにも、片倉さんは「此処の店はやきそばに玉葱を入れるのか。邪道だな」と当惑したまま、それでも傍に居てくれた。
 周りの視線の網はより強固なものになり、最早逃れがたいほど雁字搦めである。メイドがヤクザに泣かされてる、と不穏な呟きが聞こえ、そこへ騒ぎを聞きつけたらしい伊達政宗と長宗我部元親がやってきて、ますますとんでもない雰囲気に陥った。
 畏まる片倉さんに何故か食って掛かる伊達こんちくしょう政宗を止めるために、混乱の極みにいたわたしは「これは涙ではなくて水分です!」 と意味不明な絶叫を上げ、その腕を無我夢中で引っ張った。ぎょっと振り向きつつも、「何泣かされてんだよ莫迦が! つか涙も水分だろ!」と引きはしない幼馴染に、なんだかまた泣けた。
 結局、収拾のつかなくなった場に器用万歳・みんなのおかあさん・猿飛佐助が戻ってきて、どうにか事なきを得る。
 ああ、恥ずかしい。ほんともう死にたい。
 ごめんなさい片倉さん。やきそばのテキ屋は向こうの棟なので、あれは嘘なのです。



 その日、その後の事は、もう思い出したくもない。
 でも、元凶は今もわたしのクロゼットの端にて、その兇悪な存在感を燦々と放ち続けている。
 わたしも大概、現金な奴だ。




(初出:life is loveryさま アイデア提供:なっちゃん  thanks!)