「後悔しておられるのですか」

 彼の口からその言葉が出たとき、それまで静寂に徹していたの口元が動いた。紅色が描き出す温もりはいよいよ悲しげに弛む。

「その言葉だけは、貴方の口から聞きたくありません」

 俯いて項垂れ、そのまま傾きかけるのを、向かいに座る青年が抱きとめるようにして支える。寝乱れたままの単から覗く素肌同士、なのにとても冷たい。落ちかかる長い黒髪もひんやりとして、水が落ちるように梳く指先を掠めた。どうしてこんなことに、その問いは無意味だ。
 がここで暮すことになった事、その彼女を見初めて入れ込んだ男がいた事、その男が青年のあるじだった事。
 物事は何時だって単純で一方通行だ。

「悔いたことなんて」

 言い出せばきりがないだろう。







 が真田源次郎幸村と初めて出会ったのは、長く続いた戦乱の世もいよいよ終わりに近づき、待ち望んだ天下泰平が目前に迫る春だった。その偉業を為し得ようとせんは甲斐武田家、虎と名高い大大名である。真田幸村は、その人を敬愛する若くも未来ある家臣の一人、は、虎が足繁く通う色町の住人だった。
 英雄色を好む、とはよく言ったもので、甲斐の虎は人目など全く気にも留めず大門を潜っては豪遊を繰り返した。年の功ゆえか、軽々しい口約束や下手な始末などは一切なかったものの、その分相当の無茶をした。とはいえ嫌がる女に無理強いを、などという無粋なことではなく、金子に物を言わせての大酒宴を三日三晩繰り返す、といったような、「大仰なこと」である。店子は潤い男の鬱憤も晴れるのだから双方不満はないのだが、何せ後始末が一苦労なのだ。酔いつぶれこそしないが、箍が外れた所為か分別が少ない。陽気さや声の大きさはそのままに、中々に無茶やあけすけなことを言う。真田幸村はそもそも酒が苦手で、下戸ではないながらも素面を保つくらいしか舐めないので、よく仲裁役や揶揄の的に廻っていた。嬌声や酒乱に囲まれ、目に余るほど身の置き場を失っている彼に、見兼ねたは二三と声をかけたのだった。
 よろしければお茶をお持ちしましょう、徳利に入れてしまえば見分けなどつきませんもの。
 最初はそんな、他愛ないものだった。無闇矢鱈に擦り寄りも、ましてや愛想笑いすらしない女に驚いたのか、幸村は目を見張り、暫し沈黙した。といえば、何か妙なことを言っただろうか、それとも失礼な事だっただろうか、と端正な顔を驚愕に染め抜いている幸村を眺めながら思っていた。大体、武士というものは甚だ矜持の高い生き物で、何か少し気に入らないことがあると、口汚く罵ったり、足蹴にしたりする。一見して幼く真摯に見える彼もその口であるかもしれない、と少し警戒してもいた。しかし、の感情の揺れは滅多に面に上らない。今も、ただぼんやりとして無表情で声をかけ、そのままじっと彼の言葉を待っているのだ。幸村はその能面のような女にやや面食らっていたが、少しして落ち着き、意味を反芻して、畏まった。
 かたじけない。
 素直にそういって頭を下げる男に、今度の両目が見開かれるのだった。







 物心ついた頃には既に、は郭の女だった。売られた先は幸か不幸か公家武家も贔屓にする大店であり、来る日も来る日も教養という教養を徹底的に仕込まれた。同時期に売られてきた同僚が扱きに耐え切れず、一人、また一人と消えてゆく中、背丈も伸び、鼻筋も通る頃に"器量は中だが芸事は上"と太鼓判を押され、目出度く一人前を迎えることとなる。努力の甲斐あってか、はたまた彼女自身の天賦の才か、の芸事は踊や謡、竜笛、鼓、三味など、何でもござれの多芸ぶりで、中でも琵琶は別格、それだけを目当てに通う数寄者も出てくるほどである。美しい女など山ほど居る狭い世界の中だ。口数は少なく愛想も下手な遊女でも、一芸に秀でていればそれも妙と捉えられる。
 見栄えの良い京人形のように表立って飾る花ではなかったが、それでも彼女の名は常連の間ではそれなりに通っていた。だからこそ、最初は何か珍奇なものでも見るようにして引っ立てられて、畏れ多くも甲斐の大大名の宴座敷で言われるがままに芸を披露していたのだ。それが、何かの気紛れで当主が待つ上座に呼ばれ、酌をして、ある日唐突に組み敷かれた、それが始まりだった。
 相手は地位も名誉も熟しきった男である、当然、彼の周りには当代一と名高い美しい花魁たちが侍っていて、の肌を食んだのはただの悪食なのだと嵩を括っていた。山海の珍味を食すのに厭き、ふと粗末な雑炊が食べたくなるようなもの。聊か下衆だが、概ねそんな風に思っていた。
 それが、二度三度と重なり、頻繁になって、終いにはと名を呼ばれ、彼女自身を買うまでになる。剃髪の精悍な顔付が破願すれば、途端に幼くなるのが印象的だった。
 一体、この男は何を考えているのだろう。
 どれだけ足繁く通われても、親しげに名を呼ばれ優しく肌を撫でられても、はただ恐ろしかった。物珍しさが勝っている内はいい、だが厭きるのは何時だって刹那だ。虎と異名をとるこの男に、いつか、また戯れに食い殺されるのだろうと思っていた。けれど己はたかが芸妓、客を選ぶなどと以ての外である。下手なことをして大恩ある舗に被害が及ぶとも限らない。その点では、普段から愛想の足りない自分に安堵した。元々笑顔のない女、閨で幾ら笑わなくとも不自然ではない。そしてまた、冒頭の問いに戻ってくるのだ。
 可愛げも面白味もない女、多少芸事が出来ても、それは執着に繋がるのか。
 答えを望まない問いを頭の隅に置きながら、日が過ぎた。状況は変わらない。ただ、真田幸村がから目を逸らさなくなった。







 時折、は乞われて別の置屋の娘たちへ芸事を師事する。相変わらず淡々として澱みない教鞭に教わる側は閉口したが、舗の主人たちには"芋どもが一日で洗われる"と概ね好評だった。その日の教科は件の琵琶で、は愛器を胸に抱えて帰路についていた。慣れた往来は隔離されているとはいえ大きく、人通りも派手である。大半が置屋や芸事の教室だったが、若い娘が多い分、反物屋や甘味処も備えてあった。鳥が囀るようにして、年頃の娘が其処彼処で話に花を咲かせている。甲斐の治世が安定してからは遊里も雁字搦めではなく、大門さえ潜らなければ芸妓たちも自由に歩き回ってよくなった。楽しそうに何事かを話し合う娘らを遣り過ごし、台座に赤布を敷いた団子屋を通り過ぎたとき、突然、腕を引かれた。

「あ、その、あ、相済みませぬ、つい」

 取りこぼしかけた琵琶を庇うので、相手の顔を確認し損ねた矢先、聞こえた声音である。鼓膜が震えた。そんな己に驚いた。顔を上げたの前に、薄茶の髪を陽に透かす端正な若者がいる。

「その…、舗の主人に伺ったところ、楽の稽古に行かれたと御聞きして」
「…はい」

 さようでございます、とそんな返事だ。肯定だけしてしまい、案の定、その先を言わないに幸村は心底困った顔をした。途端、の胸の中央に鈍い痛みが走った。何か言い足せばいいのに、この口は、頭は、気の利いたこと一つ弾き出せそうにない。通り過ぎてゆくだけの日常の中、一向に色褪せて呉れない顔付が目の前にある。そして今は舗先ではなく往来、大勢ではなくひとりだ。何か言えばいい。だが何を言えばいい。
 日夜修練に明け暮れたの手首は細い。しかし女らしい柔らかさは失くしている。そこを掴んだ真田幸村の掌はごつごつとして、荒れ果てている。無理をした手だ、とは思った。日々我武者羅に己を研ぎ澄ませた証。

「真田様も、何か鍛錬をされていらっしゃるのですね」

 双方、同じ体制で長いこと押し黙り、やっと出てきたの言葉だった。不自然に繋がれた腕、体勢のまま、前に繋がらぬ不可思議な言葉。当然、真田幸村はきょとんとした。は楽器を抱えなおして、つながれたままの腕をす、と引く。握る形のまま動かない幸村の腕が揺れた。途端青年は大袈裟に驚き、瞬時に察してから手を離す。

「も、申し訳ない、なんと不躾なことを」
「いえ」
「………その、」
「はい」
「お、俺…、あ、いえ、某が、本日こちらにて殿をお待ちしておりましたのは」
「ええ」
「…い、いつぞやの……、酒宴の席での礼がしたいと、常々思っておりましたゆえ」
「お礼?」

 瞠目すらせず、ふいと首を傾げるへ、幾分か平静を取り戻した幸村がはい、と頷く。

「慣れぬ席で身の置き場を失うて居りましたら、殿が某に、酒と見せかけた茶を」
「…ああ」
「あの時は、情けない所をお救い頂きました。何か報いる術はないかと思案したのですが…、その、某はどうもこういった事には疎く」

 申し訳なさそうに頭を掻く青年へ、はゆるりと首を振った。

「お気に為さらないで下さい。わたくしが不躾な真似をしただけですから」
「いや、それでは某の気が収まりませぬ。この幸村、享けたご恩は必ず返す所存」
「そう仰られても…」
「団子はお好きでしょうか」
「…は?」

 今度は、が目を見開く番だった。なんだ、その質問は。唐突さに面食らう娘の前、彼は何処かいそいそとして、先程が目端で遣り過ごした赤布の台座を手で示す。

「此処の店は中々美味でござります。御嫌いでなければ、某が馳走致します。如何でしょう」
「いえ……あの」
「もしや、殿は甘味がお嫌いか…?」
「そういうわけではなく、」
「ならば、是非!」

 満面の笑みでそう言うなり、台座へ腰を下ろし隣を指し示す。
 実直で、誠実そうな青年だとは思っていた、けれど、さりとて武士、そうも思っていた。今まで武士に良い思い出なんかこれっぽっちもない。だがそれで当たり前、そういうものなのだ。なのに、彼は一体。
 硬直したままのを不審に思ったか、座したまま幸村がじっとを見上げてくる。黒目がちの丸い、しかし整った双眸が真直ぐにこちらを見る時間に負け、はおずおずと隣に腰を下ろした。ここで下手に逆らい、面倒ごとになるのは避けたい。そう思っての妥協だった。しかし相手は警戒するににっこりと笑んで、店主を呼び、はきはきと注文をとる。程なくして運ばれてきた皿、それすらまずはに差し出した。

「どうぞ、一口。真に美味にござりますぞ」
「はぁ…いえ、その、真田様こそどうぞお先に…」
「某は先程、殿を待つ間に口にしておりますゆえ」

 食べてたのか、とが思う間にも、皿の盛から一串とり、あれよあれよという間に握らせてくる。
 どうぞ、どうぞと目と口が言う。気まずいながら、が手渡された串先を口に運ぶ。ほんのりと甘い米粉と飴の香り。弾力が強く、租借に神経を注がねばならない。無言で噛み締めて、嚥下。

「………美味しい」
「やはり!」

 は、とが我に帰れば、隣に座る真田幸村は満面の笑みだった。そうでござろう、やはりな、そう満足げに繰り返して、彼もいそいそと団子を頬張り始める。山ほど盛られた甘味の頂点を両手に一つずつ携えて、それはそれはうっとりと噛み締める。唖然と見ていただったが、やがて、彼女も留めていた手を口元へ運んだ。美味、それは本心だ。

殿も、甘味がお好きなのですな」

 相変わらず口に含んだままだが、決して野卑ではない。はやはり乏しい表情のまま、少し首を傾げて応えた。

「すき、と申しますか…、随分久しぶりに口に致しました。ですから少し、感動しております」
「日頃は召されないので?」
「ええ。何せ、わたくしがまだほんの小娘だった頃は、こういう店など殆どありませんでしたから。有っても自分で好きに歩き回るなんて、それこそ年に一度、あるかないか。最後に食べたといえば…、何かのご褒美に貰った飴かしら。懐かしい」

 その頃はまだ戦国乱世の真っ只中で、この辺りも随分と余波を受け、中々に荒んだ匂いが漂っていた。客質も幅広く不安定で、往来には死体こそ転がっていないものの、それに殉じた酔っ払いやごろつきがわんさと溢れていた。そんな最中で堂々と開店できる所など、相応の自衛が出来るか顔が利くのようなものの店ばかりだ。甘味など、頭の片隅にだって上った事はない。
 それが今はこの態。道筋で若い娘同士が立ち話に花を咲かせられるまでになった。外の事は知らないが、これはきっと"普通"というものなのだろう。

「良い世になりました。武田様の天下は万民の慶ぶところなのでしょうね」

 半分お世辞、半分本音の吐露だった。しかし、端から見ていても丸判りなほど主君を敬愛している青年が、何も返してはこない。
 おや、と思うが振り返る。

「お館様を、好いておられるのですか」

 真面な面をして、真直ぐな目をして、そんなことを言うものだから、思わずは下を向いた。

「お館様は殿のことを、…その、殊更慈しんでおられます。あのように、少し、女子に気安いところはありますが、好意を無碍にされるような御方ではございませぬ」
「左様でございますか」
「甲斐は武田の武士団を一手に引き連れるその手腕、懐の寛大さ、統率力。どれを取っても、あの方に敵う御仁は居りますまい」
「ええ」
「天下はもうお館様の手中に納まったも同然、後は近々の上洛、無事成功した暁に将軍意を賜れば」
「真田様」
「…は、」
「申し訳ありません。はこれからまた、別の舗へ舞の稽古に往かねばなりませぬ。暇乞いを」

 嘘だった。使い終えた竹串を丁寧に置いて、が立ち上がり、一礼する。慌てて彼も立ち上がろうとした先を制して、傍らの愛器を抱えなおした。先程真摯だと思った顔を、今はもう見たくもない。腰を折りながらそんなことを思い、は不意に愕然とした。見たくないという事は、見たかったのだ。ずっと、ずっと、きっと、初めて会った時から、こんな瞬間を待ち侘びていた。その人が、その口で、を好きにする男の名を褒める。口汚く罵られるより、ひどい侮辱だった。
 
「この身に過ぎたるもの、真にご馳走様でございました」
殿、あの」
「では」

 踵を返すその手を、あの草臥れ果てた掌がまた留める。お放し下さい、が言う。真田幸村はその咄嗟の行動に、己で己を御しかねていた。申し訳ない、と謝る声が困惑している。お互いに、距離を測りかねている。

「不躾なことを申し上げたのは謝ります、ですがその、つまり…、そ、某が言いたいのは」
は、お侍様が苦手にございます」

 真田幸村が息を呑んだ気配がした。

「怖くて、怖くて怖くて堪らない。あの御方が、いらっしゃらない日だって、毎晩うまく眠れません」
「何故、それほどまでに」
「貴方様にはきっと、お判りにならないでしょう」
「さりとてお聞かせいただきたい。それとも、殿。若しやこの俺も、怖いとお思いなのでしょうか」

 一向に弱くならない拘束、しかし女相手の手加減をありありと感じる。本気で振りほどけば恐らくこの男は深追いしない、その迷いも見えた。わかっている。だって、昨日今日郭の女になったわけではない。芸の評判が一人歩きしているだけで、本質はここの女たちとなんら変わりないのだ。駆け引き、機微、諦め方、凡て疾うに教わった。わかっている、わかっているだろう。

「この俺の、邪な横恋慕も、怖いとお思いか」

 の動きは一度完全に止まって、それから、ゆっくりと弛緩していった。振り返り、琵琶を抱える腕に力を込めて、瞳を上げる。真摯な獣が真正面にいた。







 それから、酒宴が開かれるたび何度か顔を合わせて、ぎこちない会釈が幽かな笑みに変わり、引き結ぶままだった唇から容易く音が漏れるようになった。しかし場所が場所だというのに、真田幸村は決してを金で買おうとはしなかった。男に対して「身持ちが固い」と表現するのは如何なものだが、ともあれ、そう表現する以外相応しいものはない。彼はとても、とても真直ぐだった。時間をかけて、ゆっくり、他の男とは違って、を外側から堪能したのだ。
 逢瀬、と呼べるほど、密な時間を過ごした記憶はない。けれど確かに惹かれたのだ。互いに、恋を歌う口ではなく、恋をする、その、目に。








「今日は、そなたの好きな曲を弾いてくれ」

 閨に沈む前、この男はいつも何か一曲、琵琶の演奏をにせがむ。大抵は粋な性分ゆえに気に入りや気分で指定があるのに、今日は一体どうしたことか。些細な変化を敏感に気取るに、剃髪の男は肩を揺らして笑い返す。

「何、いつもいつも口喧しく好き勝手言っておったからな。今更だが、そなたの好みを知ろうと思っただけだ」
「わたくしの、好みでございますか」
「左様」

 大きく頷いて、肉の癖に硬そうな唇が大らかな弧を描く。次いで手招く逞しい掌、躊躇は一瞬で、次にはもう引かれて、倒れこんでいた。急なことにも拘らず、握ったままの愛器を手放さなかったのは、この男が間違いを犯すはずがないという確信からなのだろうか。
 鼻先をの髪に埋め、男が一つ深く呼吸した。息を吐くと一緒に、「今更だがな」と声がした。

「そなたは、儂のことを知っているな」
「お聞かせ頂いた程度には」
「だが儂はそなたのことを知らぬ」

 は身じろぎせず、黙って男の言葉を待っていた。穏やかな吐息が触れ合う身体越しに共鳴する。

「望みも戯れも、恨みも言わぬ。何が好きだ。何が欲しい。そなたも女、夢を見よう。それを儂に聞かせて呉れはしないのか」

 は暫く無言だったが、やがて小さく身じろぎして、拘束を緩くして頂いてから、またゆっくりと身を起した。指先で弄ぶままだった柘植の撥を握り直して、試すように弦を弾く。びぃん、びぃんと大らかな音。波の音だな、と昔、この男が言った。波とは海のことだとそのとき知った。海、話に聞くだけの遠い存在、それが今、手元にある。目を閉じ無心に指を動かせば、そこはもう無限だった。
 曲目も何もない、即興の爪弾きである。余韻を逃がしながらそっと目を開けば、男は脇息に頬杖をつき、じ、と目を閉じている。そのまま暫く動かず、寝入っているのか、とが指先を伸ばしたところで、やっと石膏のような両の目がゆるりと開かれた。焦点はまずを見ず、ぼんやりとして闇に沈んでいる。
 月が綺麗だから、というこの男の要望で、元々室内に灯りは入れていない。その分、視界は暗きに慣れていた。だからお互いの表情は、この暗闇だというのにとてもよく窺える。憂いに沈む男の横顔を何とはなしに眺めていただったが、やがて、胸の内に去来するものがあり、努めて静かに目を伏せ視線を外した。その時に声が掛かった。

「音が変わったな」

 咄嗟に返事が出来ず、ただ撥を持て余すようにして握った。相手は返事を求めている。漸く、左様でございますか、そんな声。

「前も良い調べだったが、昨今は特に、艶がある。苦味にほんの少し、甘みが含まれるようだな。極上だ」
「恐縮ですわ」
「修練の賜物か」
「さあ、どうでしょうか…、」
「心当たりは」

 いいえ、ございません。
 首を振るに虎は暫く無言で、やがてそうかと頷いた。程なくして、手招かれたので、今度こそ楽器を仕舞い、撥を置いた。首筋に垂れた髪を背中へ流される。指先は項を通り、帯に降りて、袷と遊んでいる。
 この男を、最初ほど恐ろしいとは思わなくなった。慣れの所為か情の所為か、別の原因か、昨今は人となりを観察する余裕まで生まれ、そして確信する。この男の心は今、酷く乾いているのだと。将軍位を賜り天下の覇者となった今、彼を脅かすものは病魔や天命など、ままならないものばかり。厭いているのだ。単調で代わり映えのない、一定の暮らし。当て所ない膨大な時間に、足が竦む。



 はい、信玄様。

「儂に何か言いたい事はないか」

 彼は何か波を求めている。それはの望まないところだ。

「いいえ、なにも」

 このまま静かに暮して、いつかは、あの美しい青年と穏やかに別れたい。

「何もありませんわ」

 虎は一度唸るように咽喉を鳴らして、やがて人らしくそうかと呟いた。







 真田幸村はに何も望まなかった。も、彼に何も望まなかった。貴方だけでいい、そんな奇麗事ではなかったが、他には特に何も欲しくなどなかった。時折顔を見て、声を聞いて、笑みを交わすだけで、見えない傷をひとつひとつ塞いでゆく心地になれた。確かに、主君に対する遠慮もあったろう、後ろめたさもあったろう。彼が最初に指一本触れようとしなかったのだって、概ねそれが理由だった。済崩しに戯れた後は随分長いこと葛藤して落ち込み、己を徹底的に苛む様な人。それを心底いとおしいと感じてから、はまた身の相応を思い出し、その気持ちにしっかりと蓋をして、深く深く沈み込めるのだった。きっとお互いに、そうやって遣り過ごしてきた。確信や決定打など欲しくない。希みは失望の入り口だ。だから何も欲しくなどなかった。
 最終的に、やはりは虎に殺されるのだろう、そう覚悟していた。あの男が気付いていないはずなどない。今は、と、あの青年に、猶予を与えてくれているのだ。もしかしたら、迷っているのかもしれない。どの道、この空白は束の間だろう。戦は終われど獣は死ぬまで獣、牙は突き立てる為のもの。老いて盲いた虎は失った獲物を求めている。矛先はひとつ、いるもいないも同じ郭の雌猫、そう判断する理性は残っている筈だ。
 どんな形の裁きであれ、しかしは甘んじて享ける心算だった。そう思い至って初めて、彼女は一人、戦で家を焼かれて以来の笑い声を上げた。いっそ涙さえ出そうだった。ああ、これが幸せかと、そう感じた。幸せはこんなにも晴れ晴れとして、虚しいのか。







 その日、それはそれは快晴だった。
 の舗は規模の分だけ様々な人がいて、ほぼ朝から晩まで足音が絶える事がない。けれど郭内の規律は守られていて、日が高い内はなるべく物音は殺される。だというのに、この日に限っては違った。まだ燦々と陽光が照る時分から、騒がしいことこの上ない。
 呼出のないは起きていて、自室で一人琵琶の弦を弄っていた。反りのない糸倉に細い指を絡ませ、くるくると単調な円を描く。白い軌跡を六度辿ったところで、鼓膜が慌てた足音を拾った。
 の自室は滅多に陽の差さない北東の角部屋で、来客と呼べる人影も同じくの寂れたところにある。息せき切っての大人数、それもあけすけな音。何事かと、流石に身を固くした。襖が断りなく開いたのは同時。非難めいた制止の声を背後に、甲冑の男が乗り込んでくる。

「手前か? ah, なんだ、随分陰気なところに居やがンだな」

 人の悪そうな笑みに汗と埃と、僅かな血の臭い。途端、嫌悪が突き抜けるに対し、来訪者は名乗りも上げず乱暴に腕を引く。

「まあいいさ。来な。酌でも何でもして呉れや」
「…お客様?」
「じゃなきゃなんだ?」
「何故わざわざわたくしをお引きになります」
「手前だろ、真田幸村の女」

 交わされる会話の合間にも、の腕は抜けそうな力加減でぐいぐいと前へ行く。縺れそうな足を叱咤して、何とかついてゆく道程、その端々で、見慣れぬ戦装束に身を包んだ見るからに柄の悪い連中が、好き勝手乱暴の限りを尽くしていた。手当たり次第は当たり前、年端もゆかぬ禿すら乱暴に空き部屋へ連れ込もうとする輩もいて、明方からの騒々しさはこれかと、は漸く合点が行く。見境無い大人数相手に、邸内がこれまでにない大混乱に陥っていた。主人と番頭の金切り声が聞こえる。を案じた新造の悲鳴が途中から自身の慟哭へ切り替わった。も混乱していた。恐怖もあった。きっと、騒動の火元はこの男だ。得体の知れない口でおぞましいことを言う。
 やがて、最近は甲斐の虎にしか開かれなかった特別設えの部屋へ辿り着く。連綿と連なる襖障子を片手で乱暴に開け放ち、広がった空間へ遠慮思慮なくを放り投げる。堪らず倒れこんだ。酒器珍味の用意などない。趣や飾りだけ立派のがらんどうとした広間は、何処かちっぽけで空虚だった。
 顔を上げたの前、男が膝を着く。裂けるのではないか、と思うほど皮肉げに歪んだ口元が見えた。

「如何ってことない面だな。色気も素っ気もねぇ。取柄といや、芸が出来るってか。なんでも琵琶は極楽浄土の調べだって? ha, 胡散臭ぇ」

 乱雑に散ったの黒髪を一房取り上げて、節くれ立った武人の指が絡みながら宙を泳ぐ。逆行の中見える男の顔はどうやら隻眼で、只でさえ気取りにくい表情を更に険しくしていた。身につけているものからして相応の御仁なのだろう。だからといって何故、この礼を欠いた輩に髪を捕まれ引き倒されねばならないのか。しかし、舗側が客と承知しているならに拒否権はない。さてどうしたものか、震えを押さえて思案するをどう取ったか、男は次に顎をつかんだ。

「あの暑苦しい野郎が、まさか女なんぞに現を抜かしてやがるなんて、な。やれやれ、全く世も末だ」
「…真田様をご存知で」
「知ってるさ。手前よりずっとな」

 言い捨て、の躰も投げ捨てた。男は甲冑を慣らし苛立たしげに立ち上がる。

「It sucks, 遠路遥々来てみりゃ、何処も彼処も乾いてやがる。鬱陶しいったらありゃしねぇ、なぁオイ」
「は、」
「アイツは来るかな」

 歌うように恍惚という。けれどこの男はの言葉を期待していない。そもそも、など眼中にない。

「来るさ、必ず。なんてったって甲斐の虎、将軍様のお膝元だ。まずあの猿が黙っちゃいねぇよな。…ああ、まぁ、アンタが理由でもいいだろう。だが何より、奴自身が餓えてるのさ。内心悦んでる筈だぜ。遠慮会釈なく久しぶりに楽しめるんだからな」
「………」
「だろう、真田幸村」

 パン、と音がして、中途に開け放されていた襖障子が豪快に脇へ避けた。猛然と飛び込んできた人影を、得体の知れない男が気安く避ける。あっという間に、影はを押し包んだ。固く抱かれて、押しやられる。凡てが一瞬だった。

「伊達殿、此処を武田の本拠と知っての狼藉か!」
「Ah? 何言ってやがる、今じゃ日の本全部が虎のモンだろ。俺が何処で何しようが、全部同じこった」
「詭弁を…! 見損なったぞ!」
「褒め言葉だよ!」

 拳で殴りかかった真田幸村を、上背で僅かに勝る相手が難なく往なして無造作に蹴りを叩き込む。当りはしたものの堪えない幸村が第二激を繰り出して、場は瞬時に修羅場と化した。の目は目前の光景を、耳は今だ響く蹂躙の騒音を捉えていて、唇がひとりでに現実を拒否する。轟いた甲高い悲鳴に幸村が振り向く。その横面を伊達と呼ばれた青年の拳が捕らえた。

「不甲斐無ぇなぁ、真田幸村ァ! そんな女に誑し込まれやがって!」
「ぐ、」
「どうした、もっと俺を楽しませて呉れよ。なぁ、あン時のアンタは何処に行ったんだ? この俺を唯一追い詰めた、べらぼうに強かったあの二槍使いは何処へ行ったんだ? 虎も、アンタも、どいつもこいつも、腑抜けた面でのらくら生き延びやがって」

 仕舞いは唾棄するが如く言い切って、固めた拳を解いて振る。呻く真田幸村にがにじり寄る様を忌々しげにねめつけて、獰猛な青年は甲冑を鳴らして踵を返した。

「終いだ。ケリをつけようぜ真田幸村。俺とアンタの最後の大舞台だ」

 は、と息を呑み、真田幸村が顔を上げた。など見ないで、視線は一直線に、振り向き様にきつい眼光を叩きつける青年を見る。両者そのまま睨み合い、暫し、時が止まった。永遠の刹那、やがて、隻眼がゆるりと前を向き座を後にする。騒がしい邸内に腹の底からの大音声を怒鳴り上げ、撤収を告げている。途端、随うものの足音が幾重にも重なって、轟音は土石流のように板敷きの間という間を覆った。すすり泣きや悲鳴が尾を引く凄まじい騒音の中で、真田幸村は眉間に皺一つ立てやしない。ただ、視線は微動だにせず、今だ青年が去った後の空間をしっかりと眺めていた。
 が懐紙を取り出して、血の滲んだ真田幸村の口元をそっと拭う。その感触で我に帰ったのか、青年はゆっくりと俯いて、やがて、大きく息を吐き出した。そして呟く、申し訳ない。

「手荒な成りをお見せしてしまいました。伊達殿の分も、某が詫びましょう。誠に、申し訳なく存ずる」
「いいえ…」

 お気になさらずに、その一言が出てこなかった。得体の知れない張り詰めた空気にの躰は強張ったまま、震えを押さえるのに精一杯である。そして、目の前にいる青年からは一向に緊張感が抜けていない。
 沈黙が過ぎて暫し、今だ掠れた朱がこびりつく唇で、真田幸村がポツリと零す。

「伊達の…、あの方は、従五位下美作守、伊達政宗公であらせられまして、今は東山道にて何石かの自治を仰せ付かっている御方です。某と初めて会うた頃から聊か気随な節はございましたが…、先の大戦にて右目を失くされて以来、歯止めが利かぬのでしょう」
「あの、黒鍔の眼帯にござりますか」

 の言葉に、幸村は重ねて何事かを言いかけたが、しかし口ごもり、黙って微笑んだ。

「あの男は、某の生涯、只一人の宿敵なのでござります」

 言葉の意味を取りかねて、はただ黙っていた。幸村は構わず、洞々と語る。

「まるで初夏の青嵐のような男で、技も度量も破天荒。ただ只管に強かった。三度ぶつかり、三度とも決着がつかぬまま、世は太平と相成りました。伊達殿も某も大儀ある御家を持つ身、戦が終われば潔く槍を置くのは道理。………けれど、あの男は、それを腑抜けという」
「…真田様、」
「まこと、愚かな事。存じております」
「真田様」
「ですがどうやら某も、同じ類のようで」
「真田様!」

 とうとう、が叫んだ。初耳である彼女の一喝に、焦点を逸らしていた幸村が今度こそ、真正面からを見た。途端には慄いた。まるで知らない顔つきだった。

「あの男も俺も、己を持て余して居るのです」

 持ち上げた片方の掌に、幸村の視線が落ちてゆく。古傷だらけの疲弊した腕。五指が揃っているのが不思議なほど、激戦を掻い潜り、荒れ果て使い尽くした見目だった。

「この腕の使い道を見失ってしまった。あの高揚感、あの疾走感。今生ではもう二度と手に入らぬもの。そうと判っていて、こんな世を望んでいた心算でした。得心して、諦めた心算でした。しかし今、伊達殿と相対して、はっきりと理解したのです。…俺は、」
「それで、死にに往くと言うのですか」

 遮って、の手が真田幸村の掌を掴む。そして睨んだ。
 だから侍は嫌いなのだ。横柄に、好き勝手に、自他共に命を軽んじる。

「あなた方が好きに作ったくせに、この世では息も出来ないと仰られるのですか」

 分厚い皮は女の手の正しい感触を伝えては呉れない。しかし、幽かな震えは確かだった。の唇は相変わらず鈍く、それ以上は動かなかった。しかし、互いに認めた視線がそれを補った。幸村が突如強く腕を引いた。は為すすべなく抱きこまれ、固い腕がきつく彼女の全身を締め付ける。

「真田源次郎幸村、今生最後の大いくさにござります」

 僅かに上ずった声だった。

「これに見事勝利した暁には、先の生涯凡てを余生と致しましょう」
「…真田様、」
「戻って参りましたら、殿とのこと、俺から凡て御館様に申し上げます。お許し頂けぬやも知れませぬ。お怒りになるやも知れませぬ。それでもいい。共に生きよう。この世の何処かで、静かに」

 は大きく瞳を見開いて、長いこと呆然としていたが、やがて戦慄く唇を噛み締めて、縋りついた。同じ胸中を互いにぴたりと合わせあっていたのに、は真田幸村の心を何も知らなかった。気付くのが遅すぎた。彼もまた、急速に変化する世の流れに戸惑い、苦しみ、馴染めないでいるものの一人だったのだ。望み、望まれた戦のない世の中で、彼らもらと同じ、居る必要のない生き物になってしまった。けれど、それでも、最後までそれらしく貫こうとする。貫いて、決着をつけたら、大儀でも忠義でもなく、を選んでくれるのだ。の覚悟以上に、青年はを深く深く慈しんでくれていたのだ。それなのに、は希まなかった。それすら臆病で出来なかった。
 やがて緩やかに拘束は解かれ、両肩に置かれた堅牢な手が優しくを起こす。何か言わなければならない。何を言えばいいか判らない。真田幸村は俯くままのの旋毛辺りをじっと見て、じきに頷くと、行って参りますと告げて、立ち上がった。
 その手を、が取った。

「お貸し致します。…必ず返して下さいませ」

 幸村の手に握らされたのは、の琵琶の撥だった。柘植の成りは黒ずみ、端は随分と磨り減って、修繕と研磨を繰り返した痕が見えた。じ、と無言でそれを見詰める彼へ、が静かに、ゆっくりと付け足す。

「初めて此処に来た時、最初に学んだのが琵琶でした。あの時、唯一でした。それはわたくしです。……あなたに預けます」

 幸村がしっかりと微笑んだ。

「有難く」

 それから数瞬、目が合った。そして突如真田幸村は弾かれるようにして駆け出す。突風にように走り去る彼に、は暫く呆然として、やがて、立ち上がって後を追った。
 邸内は荒れに荒れ、其処彼処で娘たちの啜り泣きや苦言が木霊していた。使用人が総出で彼女らの慰めや散乱した物や何やらの後片付けに差し掛かっている。今はまだ混乱が強く、がよろよろと進むのには、誰も注視などしない様子だった。
 外に近づくに連れ、逆に喧騒が大きくなる。玄関を過ぎて門を出る。延びる大通りに鈴生りになる人々、野次馬がひっきりなしに飛び交っている。先程舗を襲撃した者と同じ身形の連中もいて、何事かを口々に喧しく騒ぎ立てては前方に野次を飛ばしていた。果ては大門前の大きな交叉路。そこで、戦国最後の戦が行われている。
 耳を澄ました。轟音と剣戟が幽かに風に雑じって唸りを上げているが、あの青年の声らしきものは届かない。
 このままここで待っていよう。何時までも何時までも、待っていよう。
 戻ってきたら、今度こそ気の利いたことが言えるといい。言いたいことが沢山ある。労って、喜んで、胸の内に渦巻くあらゆる感情を言葉に込めて、伝えて。それから、それから。
 途端、地を揺るがす大喚声が上がった。の周りにいた多数の野次馬たちが、我先にと決闘の勝敗を確かめるために走り出す。辺りはごった返し、押し合い圧し合いの有様だった。人海はうねりとなり、意思を持ち、一方へ向かい猛然と流れて突き進む。は黒川に飲まれぬよう脇へ下がり、馴染み深い舗の高い高い塀へ背を預け、微笑みながら目を閉じた。
 きっと彼はあの撥を持って帰ってきてくれる。

































――JAPONICA LOGOS――